小説『レポートブック』
作者:鏡アキラ()

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【関口ルキオに関するレポート コーヒーの匂い】



その日ルキオは珍しくコーヒーの匂いだけをさせていて、
それが思いのほかいい香りのように思えた。
もっとも彼と会うのは久しぶりだから、
実際どれくらい珍しいことなのかはわからない。

「なに、煙草やめたの?」
「ん?うんまあ、控えてる」
「なんでまた」
「今のコが、ね。嫌いらしくて」

兄はだるそうにあくびをし、マグカップの一つをテーブルに置いた。
お前のぶんだということだろう。
「今のコ」というのは彼一流の言い回しで、
たぶんガールフレンドのような意味である。
予想できるだろうが
三ヶ月前の「今のコ」と今日の「今のコ」が違うことは多いということだ。
遊び人ではないと思うが、淡白だからだろう。
そもそも「彼女」「恋人」とはっきり呼んでやらないという態度に
そのあたりが表れている。

「今のコねえ。今度はなんていうの」
「ミオン」
「布施さん?」
「うん」
「え、続いてるんじゃん」
「前教えたっけ?」
「うん。で、しかもそのコのために煙草減らしてんのか」
「んー…まあ…なんか、うるさくて」

ふうん、と溜息と返事の中間のような声を吐きながら、
とりあえず差し出された砂糖多めのコーヒーをすすってみた。

ルキオは高校の頃からコーヒーを愛飲し始め、
進学して実家を離れたころから煙草を吸い始めた。
あちらの友達に勧められて覚えたのだろう。
コーヒーはよく一緒になって飲んでいたくらいだが、
煙草はルキオらしくない気がしてすごく厭だった。
知らない間に始まったものだからかもしれない。
たまに里帰りしてくると
コーヒーと煙草の匂いが混ざって染みついていて吐き気がした。
禁煙しろと何度も怒鳴ったし、
せめてうちに帰ってきたらまず風呂に入って着替えろとよくわめいたが、
風呂はとにかく禁煙まではなかなかしてもらえなかった。

つまり、ルキオにとっては
弟の言葉よりもあの小さな紙の棒のほうが重かったのだ。
そして今回の「今のコ」はそれより大きいらしい。

「おい、そういえばルネこそどうなんだよ。続いてんのかよ」
「別にこっちのことはいいだろ。ルキオの話しろよ」
「いいだろおー。ルネ、まさか別れたのか、ユウキ君と」
「うるせえな。続いてるよ」
「マジか!じゃ俺が実家いるうちに連れてこいよ!」
「絶対やだよバカじゃねえの」

なぜかわからないが、恋人ユウキに対してルキオは時折変な執着を見せる。
うっかり写真を見られてからずっと会いたい会わせろとうるさい。
ユウキは美しい人だが少々珍しいタイプなので
なにか興味を引いたのかもしれない。
なんにしても余計なお世話だ。
結婚するわけでもないのに恋人を家族に紹介なんてするか。
特に兄貴になんか。

いや、恥ずかしいわけではない。
ユウキは礼儀を知っている人だし、
ルキオだって弟の恋人を前にして子供のころの寝小便の話やなんかを
にやにや始めるような男ではない。
ただとにかく居た堪れない気分にはなりそうだ。
もしかしたらユウキとルキオは話が合うかもしれず、
そうしたら居場所がなくなる可能性が出てくる。
奪われる心配まではしていないまでも
ユウキにちょっかいを出されるのは厭だし、
逆にルキオが自分そっちのけでユウキにかまう姿も
あまり見たくない気がする。

「なんでだよう。会いたいなあユウキ君」
「うぜえ。それよりヒマなら洗濯機回してきてよ」
「えーっ、久々に実家帰ってきたのにこき使うなよ」
「久々に帰ってきたと思うから気い使ってその程度なんだ。
 それとも洗濯物干すほうやりたいか」
「洗濯機つけてきます」

しっかりしてるとか、大人びた子供だとか、言われることがある。
しかしそういうことを言う人は
それがルキオの影響にすぎないことを知らない。

ルキオは常に実年齢より大人だった気がする。
彼は他の子供らより早く幼児を脱し、
ひとより早く反抗期を迎え、ひとより早くそれを脱した。
ただでさえ二年先をゆく兄が
どうやらもっと先を歩いているという事実は
幾度となく憧憬と焦燥の蟻地獄に突き落としてくれた。

ルキオはひとより早く大人になる。
だから、こちらは二十歳になってもまだ好きになれそうにない
ブラックコーヒーを高校生のころから嗜んでいたのは
ルキオらしいことだった。
その論法でいけば、二十歳から解禁になる煙草を
十八から口にし始めたことも
特別ルキオらしくないことではないはずだが、
それでもルキオに煙草を吸ってほしくないのは何故なのだろう。
自分でもよくわからない。
ルキオらしいって、なんだろう。

コーヒー。と煙草。の匂い。
甘めのコーヒーを飲み干し、マグを片付ける。
軽く水で流してそのままシンクに置きっぱなしにした。
ドリップパックを捨てようか迷っていると、
テレビのほうから、もう一杯注いでくれと声がかかる。
リビングにはごうんごうんという洗濯機の音と
テレビをザッピングしているルキオの背中があって、
見るともなしにそれらを見ながらポットに手を伸ばした。
湯の出が悪い。

『…こちらの花ノ瀬旅館は、なんと太平洋が一望できる
 露天風呂があるそうです。お邪魔するのが楽しみですねえ』
『うわあ広い!リビングにシャンデリアがありますね!
 豪華ですねえ。ちなみにこのシャンデリアおいくらくらいなんですか?』
『ただいまこちらの美術館では、
 新進気鋭の若手芸術家十人による合同展覧会が』
『とんこつなのに全然くどくないですよ。
 また麺もね、細麺だけどコシがあって』

旅行、豪邸、芸術、グルメ。
けだるい休日の午後3時にふさわしい、地方局制作のぬるい情報番組たちは
十秒見たら内容が想像がつく。
結局ルキオのお気に召したのは再放送ドラマだったようだ。
今期は推理ドラマで主役をやっている俳優が
少し幼い顔をして高校生役で出ている。
たしかルキオはこの学園ドラマの脇役の女の子が好きだった。

「ガーガーうるさいなあ」
「ポットがもうお湯なくて出ないんだよ」
「ないの?」
「いや、たぶんあと一杯くらいならある」

なんとか一杯分を淹れると
コーヒーのいい香りが半径2メートル範囲を包む。
ポットに水を足して蓋を閉めるとすぐにシューという音がし始める。
大きいほうのソファにぼすんと身を投げたら、
ルキオがきょとんとした顔でこちらを見た。

ふっと笑いがこみ上げる。

考えるのは、やめようか。
やめさせたのが自分でなかったことより、コーヒーの量が増えたことより、
いまはルキオの禁煙をひそかに喜ぼう。
もちろん、なぜこんなに嬉しいのかも考えないでおくのだ。

                       _■fin

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