小説『cats and dogs (了)』
作者:ねこたま(cats and dogs)

しおりをはさむ/はずす ここまでで読み終える << 前のページへ 次のページへ >>

-朔の章-
「序のパンドラ」



 帰ったらゲームの続きをやって、飽きたらカナに電話して、めんどくさいけど宿題もやって、それから寝る前には軽く走って自主トレして……などとこれからの予定をぼんやり考えながら無防備に歩いていた腕を、朔(サク)はいきなり引っ張られた。
「うわっ!?」
 ガードレールの切れ目に寄せられていた車内に、あっさりと引きずり込まれる。衣替えが済んだばかりの半袖の腕にひんやりとしたエアコンの冷気がふれ、転がり込んだシートの上で、慌てて車内を見回した。
「なんだよ……俊(サトシ)さんじゃん」
 隣に座っている黒いスーツの男を見て、朔は安堵の息をついた。
「迎えに来てくれんのはいいけどさ。先に言っといてよ。てか、誘拐かと思ったっての」
 自分が子供の頃から家に出入りしている馴染みのその男に、朔はシートに寄り掛かりながら笑う。ドアが閉まり、車が車道を走り出した。
 広い車内は内装を木目調で統一され、落ち着いた高級感が漂っている。後部シートもゆったりとして、大柄な俊と、手脚が長くてそれなりの身長な成長期の朔が並んで座っていても、たっぷり余裕があった。
「なんかあったわけ? 急に迎えに来るなんてさ」
 朔は学生カバンがわりのバックパックをシートに放り出した。オーディオに手を伸ばしていじりながら尋ねると、俊は深い色のサングラスをかけたままの顔で答えた。
「旦那様のお言いつけです」
「親父の? って今日なんかあったっけ」
 それ以上、俊は口を開こうとしない。普段から口数の多い男ではないが、今日はさらに輪をかけて寡黙であるようだ。
「まぁいっけどさ。最近急にあっちーし。助かったわ」
 部活でグラウンドに立っている間は気にならない、むしろタンクトップの素肌に心地良いくらいの陽射しの強さも、部活外で帰宅途中などになると途端にこたえてくるから不思議だ。朔はスピーカーから流れ出した気に入りの音楽を聴きながら、大きく脚を組んで深くシートに背を預けた。
 運転席と助手席にも、それぞれ黒服の男達が座っている。昔ながらの旧家であり、当代はかなりの権力を持つ代議士である家に生まれ育った朔には、さして珍しい光景ではない。
 育ちの良さを示すように、陽には焼けていても朔の肌はすべらかで、校則というより部活の上下関係によりいじることを禁止されている頭髪は黒く艶やかだ。最近少し伸びてきて目許に邪魔なその髪をかき上げるようにしながら、朔はふと、車窓から見える景色に首を傾げた。
「どこに向かってんの?」
 見慣れた自宅への道ではない。しかしそれにも返事がなく、朔はさすがに眉根を寄せた。
「なぁ、なんか変じゃね? 俊さん黙りこくったままだしさあ。親父が何の用なの?」
「すぐにお分かりになります」
 相変わらず、俊の声音は低く淡々としている。いつも通りの声に聞こえる。しかし妙な違和感を禁じえないのは、そもそもただ迎えに来たと言うには、やけにものものしい雰囲気だからだろうか。普段であれば、迎えなど俊一人だ。それが今日は、三人。
「ふーん……? てかさ。宿題あるし、明日朝練だし、あんま遅くなるとやべーんだけど」
「ご心配には及びません」
 俊は朔を見ようとしないままで答えた。しかしやはり要領を得ない。朔は若干苛立った。
「なあ。マジでどこ向かってんの? なんか言えないようなとこなわけ?」
 なおも俊は沈黙している。朔は諦めて溜め息をついた。俊の主人は朔ではなく、その父親だ。どうせ何か命じられた上に、余計なことは言うなと口止めでもされているのだ。面倒くさがって懇親パーティーの類に出たがらない朔を、父はこれまでも何度か強引に連れ出したことがある。どうせまたそんなところだろう。旧家の御曹司、代議士の跡取りなどというのも、楽ではない。 
 すべるように走り続ける車は、やがて高速道路に乗り、都心を離れ出した。いったいどこまで連れて行くつもりなのか、と、朔はすでに居直る気持ちで頬杖をついて外を眺めている。
 走り続けたその視界の先に、やがて遠く灰色のスモッグにかすむように、「かつての都心」であった摩天楼の影が見えてきた。
 写真や動画は別として、直接見たことはほとんどない「廃都」と呼ばれるその遠くの光景に、朔はいよいよ不信感を募らせる。
 あの場所は相当に都心から離れているはずだ。実際もう二時間近くも走り続けている。太陽もだいぶ西に傾き、空はすっかり夕暮れ色に染まりかけている。何があるにしても、この分では帰りは相当に遅くなりそうでうんざりした。
「もうすぐ到着ですよ」
 苛立っている朔の気配を察してか、俊が言った。表情の見えないサングラスの顔が、奇妙にゆっくりと、朔の上に巡らされた。
「目的地は、廃都ですので」
「……はぁ?」
 予想だにしなかったその言葉に、朔は間抜けな声を出した。


 冗談かと思っていたら、車は本当に「廃都」目指して走り続け、やがてその威容を眼前に臨む位置に停止した。
「うわ、なんかすっげえ……」
 車窓から「廃都」と呼ばれるその光景を間近に見て、思わず朔は好奇心半ばに、おっかなびっくりに呟いた。
 今年の冬で十七歳になる朔がこの世に生まれた、そのいくらか前の頃。そのときの世界では、この国も巻き込んで、大きな戦争が起きていた。「WW3」と通称されるそれは、経済的にも国際平和的にもおおいに世の中を混乱させ、そして巻き込まれた多くの国々に様々な影響を与えた、とされている。
 物心ついた頃には戦争も終わり、また裕福層の子供として何不自由もなく育っていた朔には、WW3だかなんだか知らないが、そんなものは教科書に載っている遠い過去の出来事にすぎない。ただ、戦争に参加していたこの国にも当時の爪痕は残っており、その一つがこの有名な「廃都」と呼ばれるもの――戦争以前の時代はこの国の首都であった、大都市の廃墟だった。
 朔は初めて間近に見る、その巨大な都市のまさしく墓標のような光景に、こちらに暗く落ちかかってくるような、得体の知れない背中が粟立つような迫力を感じた。どうせならもっとよく見てみようと、誘われるように車を降りた。
 日没の明かりを受けて、その明かり一つ灯らない巨大な影と化しつつある摩天楼は、沈黙の中に佇んでいる。この都市が滅んだ理由はなんだったか、と朔はなんとなく思い出そうと試みた。確か爆弾か何かで手ひどく攻撃されたせいもあったようだが、最大の理由は、細菌兵器による攻撃で街中の人間が死に絶え、まさに死の街となってしまったからだと読んだことがある。膨大な都市人口がのすべてが全滅したというのはさすがに眉唾だろうが、数百万規模の人命がかつてこの場所で失われたことは間違いなかった。
 昔そんな出来事があった、迫る夕闇に不気味に沈もうとしている「廃都」の姿を前に、朔はひとつ身震いした。初夏といっていいこの季節、夕刻の風はまだ涼しい。自分が震えたのはそのせいだと思うことにした。間違っても、「廃都」にまつわる都市伝説的な怪談のいくつかを思い出してしまったせいではない。
「んで? こんなとこに何の用なわけ?」
 朔は、自分と同じく車を降りていた俊達を振り返った。
「廃都」と呼ばれる場所は、公式に「立ち入り禁止区域」とされている。どこまで本当かは分からないが、かつてこの街を滅ぼした細菌兵器の名残りがまだ残っているとかで、軍隊が監視して街を徹底封鎖しているのだ。
 しかし一方でこの街には、世の中からあぶれた者や浮浪者達が多く流入しているとされ、まさしく治外法権な「超一級危険区域」に指定されている。
 朔のようなごく一般的な子供達が大人達から教えられることは、「廃都には近付くな」というシンプルな内容だった。細菌兵器の名残りなど、実際眉唾なのだろう。ろくな人間が群れ集わない場所だから、危ないから近付くな、というのが実際のところに違いない。
 朔は物珍しく「廃都」の摩天楼を――この頃には輪郭が見えるばかりの巨大な影の群れと化していたが――見やりながら、あたりの光景も眺めて歩く。
「廃都」と「こちら側」を仕切っている金網が、もうすぐそこにある。金網の上には鉄条網が巡らされ、そして監視塔と思しき細長い建築物が点在しているのも見て取れる。
 昔から「廃都に許可なく近付く者は治安攪乱罪に問われ、厳重に処罰される」ならわしとなっている。武器を持った兵士の姿などは見えないが、監視塔にはゆっくりと明かりが明滅していることからしても、こちらからは分からない場所に控えているのだろう。この警備の厳重さこそが、この廃都と呼ばれる街を、自分達の住む「こちら側」と大きく隔てている。
「まさか廃都の見学会ってわけじゃないでしょ? そりゃちょっと刺激的だけどさ。おとなしく着いて来たんだからさあ、そろそろマジな話してくんない?」
 本当のところ、なぜ自分がわざわざこんな場所に案内されたのか、朔にはまったく分からなかった。あまり金網と監視塔に近付き過ぎないように、しかしもう少し廃都の様子を見て取れるように、あたりをうろうろする。
 その自分の足音と、遠くの車道から聞こえてくる車の音くらいしか聞こえない中に、かちり、と、何か小さな音が響いた。
 耳に覚えのあるその金属的な音に、朔は俊を振り返る。
「……何やってんの、おまえ?」
 朔は思わず身動きを失った。俊の右手には黒光りする拳銃が握られている。しかもその銃口は、真っ直ぐ朔に向いていた。
 何の冗談か、とまた思った。実際、この状況は冗談としか思えなかった。俊は朔の家に、正確には父に長く仕えているボディガードだ。一人っ子だった朔は、幼い頃から彼によく可愛がってもらっていた。いかつい外見に似合わず、サングラスを外すと存外に優しい顔立ちで、笑うときはその顔全体をくしゃくしゃにする俊を、朔は本当の兄のように思って育った。もっとも一人っ子だったのは、半年ほど前までの話ではある。
「朔様……お許し下さい」
 俊が押し殺したような声を出した。その手にある拳銃が偽物であるわけがないことを、朔は充分に知っていた。なぜかはまったく分からないが、それが今、どう見ても自分のことを狙っている。
「何だよ、それ……」
 まだ状況を理解できず、朔は困惑した声を上げた。
 気がつけば、俊の他にもう二人いた黒服達も、拳銃を抜いて朔に向けていた。ありえない、と思った途端、思わず後ずさっていた。何が起きているのか分からない。だが、これは冗談ではない、ということだけは理解できた。
「……親父?」
 途方に暮れたような思いで向けられた銃口を見ながら、朔は言った。
「親父なのか。俺が……やっぱり邪魔になったのか?」
 その泣き出しそうな表情と声に、俊が明らかに躊躇う色を見せた。
「……あの人は、あなたを廃都に連れて行けと仰いました」
 その言葉に、朔は息を飲む。苦渋を滲ませた俊の声音に、これは悪い冗談などではなく「現実」なのだと、その実感が背筋を冷たく伝いながら染み込んでゆく。
「ですが、生まれてこの方何不自由なく育ったあなたが廃都で生きていけるわけがない。あの人は悪人になりたくなかったのです。直接にあなたを殺せと命じる勇気がなかった。あなたを殺しはしないと、廃都に追いやることで、あなたを事実上死に追いやるという現実から目を逸らそうとしている」
 淡々と告げながら、俊が無意識のように降ろしかけていた銃口を再度持ち上げた。朔は何の言葉も言えず、身動きすることもできず、ただそれを見返していた。
「ですから、私があなたを殺して差し上げます。廃都などに追いやられ、いずれ野垂れ死ぬよりは、ここで楽に死ぬ方がずっと幸せですから」
「……冗談キツいっての……」
 やっとのことで、呻くように朔はそう呟いた。まだ状況が理解できず、そして思考と感情が事態を受け入れることを全力で拒んでいた。
「動かないで下さい、朔様。急所を外すことはしません」
 いっそ朔が混乱しているうちに、と思ってなのだろう。俊が間を詰めてきた。あたりはすっかり暗く、明かりも乏しいため、今のままの距離であれば狙いを外す可能性がある。
 まだ信じられない思いで突っ立っていた朔は、俊が引き金を引くまさにその瞬間を、自分でもなぜと思う鋭敏さで察知した。命の危機を前に、無意識が五感の活動を、常態を大きく超えて促したのだろう。
 ぎりぎりで動いた朔の身をかすめて銃弾が走り、音を立ててアスファルトを穿った。響き渡った銃声と、動かなければ確実に撃たれていたという事実とが、朔の頭を殴られたように現実に引き戻した。
「ヒッ……」
 喉がひきつった悲鳴にもならない声を上げた。数歩よろめき、あとはもう弾かれたように走り出す。背後からバラバラと足音が追ってくる。何もかも信じられない、信じたくもないが、今はもうまともな思考が働かず、逃げることしか考えられなかった。さらに何発か銃弾が身をかすめ、朔はますます死に物狂いで走った。
 逃げる場所もないまま走った先は、じきに廃都をその向こうに臨むフェンスの際へと朔を追いやった。金網に取り付いてみるが、それは頑丈で背が高く、ましててっぺんには棘だらけの鉄条網が張り巡らされている。
 だがこれを越える他に逃げ場がない。
 たった数百メートル走っただけだというのに、心拍数が急上昇して呼吸が乱れている。狂ったようにガンガン体内に響き渡る心臓の音を聞き、こめかみに鈍痛を走らせる血流の速さを感じながら、朔は一度だけ後を振り返った。本分はハイジャンプだが、短距離走のタイムも決して悪くは無い朔の脚力は、ここに到るまでにだいぶ俊達を引き離している。だが彼らも必死で、迷っているような時間はなかった。
 朔は勢いをつけてジャンプし、金網に取り付いて登り始めた。日頃から鍛えられ身軽な身体は、たやすく高い金網の上へと移動する。しかし途中から絡みついた鉄条網に、朔は怯んだ。鉄条網の絡んだ縦に二メートルほどもある部分は、廃都の側へ向かって六十度角程度に倒れている。
 鉄条網からびっしり生えた鋭い棘の輝きを、朔は凝視した。なんとか棘を避けて触りたかったが、とてもそれはできそうもなかった。
 そこに足首をあわやかすめて銃弾が走り、朔は覚悟を決めて鉄条網に手を伸ばした。
「……っ……!」
 ざくり、とたやすく掌の表皮を突き破って鋭い棘が肉に食い込んできた感触に、朔は上がりそうになった悲鳴をなんとか飲み込んだ。かつて体験したことのない激痛に、一気に脂汗が全身に浮く。だが掌の痛みよりも、今は追われる恐怖の方が勝った。
 鉄条網を握り締めた手にさらに力を込め、身体を引き上げる。ますます棘が深く突き刺さり、掌を引き剥がすときにもまた灼けつくような痛みが走った。せめてなんとか身体には棘をふれさせないようにすると、さらに掌に深く棘が食い込む。だがもう何も考えず、必死で歯を食いしばって鉄条網を這い上がった。ようやく頂に辿り着き、朔はそこから後先考えずに向こう側の地面に向かって跳んだ。硬いアスファルトの上になんとか激突することなく着地したが、勢い余って数歩よろけた末に派手に転倒した。
 しかし、フェンスを隔ててなおも銃弾が飛んできた。朔は身体のあちこちに走る痛みを自覚する余裕もなく、即座に立ち上がって走り出した。今はもう、ただ逃げるだけだ。それ以外のことを考えられない。たったこれだけの運動量で、心臓が破れるのではないかと思うほど息が上がっている。感情と理性の極端な乱れが、そのまま自律神経も狂わせていた。
 宵闇へと完全に沈んでゆく廃都の影へ向かって、朔は何度も自分の足に足をとられながら、呼吸の続く限り走り続けた。

-1-
Copyright ©ねこたま All Rights Reserved 
<< 前のページへ 次のページへ >> ここまでで読み終える