小説『ハーフ 【完結】』
作者:高岡みなみ(うつろぐ)

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 聡美が門を通り抜けようとすると、五号館前のベンチに玲子が座っているのが見えた。聡美は、からかうように
「玲子、おはよう。どうしたの。早いじゃん」
と、玲子に声をかけた。
 聡美は玲子といくつか同じ授業を履修していたが、一時限目の授業で玲子に会う事はほとんどなかった。玲子は履修届を出した時点で一時限目の授業など出る気がないようだった。聡美は玲子が授業に来ない時はいつも玲子の分の出席カードを出していた。
「今年は真面目に出席しようかなって思っているんだ」
「去年も同じ事を言ってたよ」
「あれ、そうだっけ。でも今度は本気なんだから」
「それも言ってた」
 聡美と玲子はやりとりを楽しみながら、五号館に入っていった。
 毎年、五月の連休を過ぎると大学から学生が減ってくる。特に午前中は学生が少なく、聡美は人をよけずに歩けるキャンパスが好きだった。キャンパスは、交通量の多い狭い道路をはさんで、異なる二つの雰囲気に分かれている。一つは古い煉瓦造りの建物の多い南側。そして、もう一つはコンクリート造りの北側。聡美は大きな木々に囲まれた図書館や煉瓦造りの一号館のある南側がお気に入りで、講義のない時もよく散歩をした。今朝は、その反対側の真四角な箱のような五号館での授業だ。
 玲子は
「今日、出席をとりそうな気がしたの」
と、言った。
「いつも私が出席カード出しているのに、それって理由になるの?」
「いつも聡美にやってもらってるから今週からはまじめに学生しようかなって思ったわけよ」
「ふうん。楽しみにしてるね」
と、聡美はまたからかうように答えた。
「信じてないでしょ」
「信じてる信じてる」
「あ。やっぱり信じてないなあ」

 五〇一教室に入ると、聡美の予想通り学生は数えるほどしかいなかった。出席を取る授業だが、学生の間では、この教授は出席率を採点に入れていないという噂だった。教壇に置いてある出席カードをとり、自分の学年、学部、学科、学生番号、名前を記入して、箱に入れる。いつも何枚かの出席カードを入れる何人かの学生がいる。おそらく出席カードは実際に出席している学生より、五割ほど多く提出されているのだろう。
 聡美と玲子が並んで前の方の席を陣取った。教授は十分ほどしてから、無表情に教室に入り、無表情に授業を進める。学生からも質問は、ほとんど出ない。質問をする余裕すらないくらいに教授の授業の進み方はとても早く、かつ難解であった。こんな授業をまともに受けようとする学生はやはり少なくて当然なのだろう。出席している学生は皆、黙々とノートに要点やメモを書き続けている。こんな広い階段教室を使用している授業だから、きっと、多くの学生が履修しているはずだ。この時期に出席していない学生は、試験の時にどこからともなく流れているノートのコピーに期待しているのだろう。この教授は毎年試験の内容を変えるというような事とはせず、似たような問題を毎年出しているらしい。ただ単位を取るためだけであれば、この授業はうってつけだろう。
「ねえ、聡美。なんでこんなに前なの」
 玲子は小声で言った。
「だって、黒板がよく見えるもん」
と、聡美はわざと冷淡に玲子に言った。
 今日の玲子は、ただ出席しただけではなく、講義も真剣に聞いていた。聡美は、そんな玲子を見ると(今度は本気かも知れない)と思った。
 講義が終わると、二人は五号館の地下の第二学食で紙コップのコーヒーを飲みに行った。玲子は
「今日、買い物につきあってね」
と、言った。今日は何も予定が入っていなし、授業も二時半には終わる。
「うん、いいよ」
 聡美には断る理由などなかった。
 玲子は朝食を取ってないのか、サンドイッチもつまんでいた。そんな玲子に聡美は「あそこの喫茶店でね。じゃあ、また」とお気楽な声で手を振りながら第二学食を後にした。

 聡美は午後の講義も終わり、玲子の授業が終わるのを待つ間に、途中で生協に立ち寄り、本を見て回った。以前から買おうかどうしようと考えてた本を手に取り、裏表紙に書いてある定価にためらいがちに見た。読みたい本を買わないと気になってしかたがない。しかし、欲しい本をすべて買っていたのでは本代は徐々に生活を圧迫して、月末ともなると、見るも無残な食生活になってしまう。しかし、(本は生鮮食品と同じで旬がある)いう持論を持っている聡美にはこれをのがすと(明日はもうこの棚にはこの本はないかも知れない)と思えてくる。本は見つけた時に買わないと、いざ読みたくなった頃には、店頭から無くなっている事も多々ある。本を手に取っては店の中をぐるっと一周してみる。すると、手にしている本はいつの間にか、増えてしまう。聡美の中ではこれを(本の友釣り)と呼んでいる。店の中を歩いているうちに、少しずつ欲しい本の数は増えていく。本の背表紙を眺めていると時間がとても早く過ぎていってしまう。聡美は数冊の文庫をレジに出した。やっぱり本は生協で買うに限る。何といっても一割引というのは大きい。聡美は本を鞄に詰め込み生協を出た。眩しい五月の空にふと手をかざして、玲子との待ち合わせの喫茶店へ急いだ。

 この喫茶店は駅とは反対方向にあり、ちょっとした穴場で、いつ行っても必ず席を確保できる。ドアを開けて店内を見回すと、少し離れたところに二つの見覚えのある顔が見えた。去年まで必修の一般教養を一緒に受けたクラスメートだった。そのうちの一人が聡美に気づいたらしく、目があってしまったが、相手が先に視線をはずした。彼らは何かを話している。聡美は(きっと、私の事を話しているんだろうなあ)と思うと、気持ちが沈んでしまった。
 店の中に玲子の姿はまだなかった。聡美は彼らと視線があわないよう背を向けて空いていたテーブルについた。アイスコーヒーと頼むと、買ったばかりの何冊かの本の中からエッセイ集を選んでページを開いた。どんな本でも最初のページはわくわくしてしまう。何が書いてあるのだろう、とても強い興味を覚える。もっとも最後までそのわくわくを持続する本はそれほど多くない。文芸雑誌の紹介や、人づてに手に入れた情報から、期待して本を読むと事ごとく外される。どうも自分の本の読み方は、他の人とは少し違っているようだ。
 本の字面は追っているが、どうしても集中しない。好きな作家であるはずなのにどうしてもおもしろく感じない。聡美は店に入った時の視線をずうっと背中に感じていた。十ページほど読み進んだ頃、「お待たせ」と玲子がやってきたが、聡美は「ごめん、出よう」といい、玲子の背を押すように店を出た。
「聡美、どうしたの?」
「ごめんね、知ってる人がいたの」
「またあ、気にしすぎじゃないの」
 聡美は申し訳ないような気持ちになって上目使いに玲子を見た。
「いいじゃん。好きに言わせておけば。関係ないんだし。だいたいこの間も言ったけど」と、言いかける玲子に、聡美はかぶせるように
「ごめんね。いつも、いつも。気にしてもしかたないし、もうあまり考えにようにしようと思ってるんだけど、ついね」
と、弁解した。

 聡美は玲子が洋服や雑貨、CDといろんな店を見て回るのについていたが、どこか気持ちが乗らなかった。
 玲子はそんな聡美に気づかない振りを続けてくれる。聡美は、こんな時でも、いつも通りに接してくれる玲子のやさしさがうれしかった。いろいろ気遣ってくれない方がいい時は、そのまま放っておいてくれるし、何か言ってほしい時は、いいアドバイスをくれる玲子を聡美はとても大切に思っていた。
 聡美と玲子は高校の頃からつきあいだが、この間までの関係は、今のそれとは全く違っている。しかし、聡美を一番理解しているのは玲子である事は変わる事はなかった。

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