小説『ハーフ 【完結】』
作者:高岡みなみ(うつろぐ)

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 風も吹かず、アスファルトに熱せられた空気は、躰にまとわりついていた。五号館前のベンチも夏の光に満たされて、まぶしく輝いていた。聡美は一時限目の授業に急いで五号館へ向かった。五〇一教室は大きな階段教室だ。教授が前の入口から入るのとほぼ同時に、後ろの扉から入る事ができた。階段教室の後ろから教室を見渡すと、出席している学生は普段の倍近くいた。前期試験が近くなると、急に出席する学生が増えてくる。何処に座ろうかと席を選んでいると、玲子の姿が見えた。玲子も気づいたらしく、隣の席を指さし聡美を促した。
 玲子は、小さな声で「今日は遅かったじゃない。どうしたの?」と訊いた。
 聡美は、少しはにかんだような表情で「ちょっとね」と、曖昧な返事をした。
 授業を受けながら、隣の玲子のノートを見ると、ノートのコピーの束が挟んであった。どうやら欠席した時の講義のコピーのようだ。
「結構ノート集めたね。後で私も見せて」
「うん、いいよ。この後は、何もないでしょ。後でお茶しに行こうね」
 冷房の入っていない階段教室の上の方は、やたら暑かった。ハンドタオルは必需品で、額に吹き出してくる汗を拭きながらの受講だった。玲子は明るい色のプリントのTシャツをゆったりと着ていた。一方、聡美は明るい緑のポロシャツにジーンズといった、ありふれた姿をしていた。聡美のしなやかな髪もずいぶんと伸び、男性を感じせさなくなっていた。聡美は常に女性を意識していた。男性である事に対する嫌悪感を、脱ぎ捨ていくようにように、ゆっくりとではあるが、女性に近くなっていった。もともと小柄な聡美は、しぐさや服装を変えるだけで、ずいぶん女性らしく見える。
 玲子の大きな助けに支えられて、聡美はゆっくりと男性を失っていった。ちょっと見ただけでは、女性のように見える。薄くファンデーションを塗り、唇をピンクに染めると、それだけで女性を手に入れたような気分になった。体重もますます減り、体つきも華奢な感じになっていった。
 外見が女性化するにつれ、聡美は「自分は本来女性であったのかも知れない」と感じはじめていた。自己を再構築していく過程で、「本来の自分は何なのか」「性別という物はその人の人生や人格を左右するのか」と、自問自答していた。戸籍上の性別は、一般の生活において、あまり意味なさないのではないか。もちろん社会の中で生きていく上では、いろいろな不都合があるだろうが、その不都合から来る面倒より、心の中で起きる面倒を解消する方がよほど困難であった。聡美はその困難を少しずつ克服していく自分を感じていた。

 講義が終わると、そのまま、いつもの喫茶店へ向かった。
 玲子は「あいてるかなあ」と少し心配気に店の中を見回したが、二時限目が始まる事もあってか、以外に空いていた。
 玲子は、
「今日も暑いね」
と、切りだした。
「うん。教室に冷房入れてほしいよね」
「同感、同感」
「さっきのコピーって、どこから回ってきたの?」
「うん一年の時、必修が同じだった人からなんだけど、この子が無駄な動きをしないというか、要領がいいの。あまり大学に来ないのに成績はかなりいいのよね。何か、尊敬しちゃう。だって、大学に来ない時間に別の専門学校に行って、バイトもしっかりやってんだもん。まいっちゃう」
「へぇー、そんなにすごいんだ」
 聡美はこんなにしっかりした玲子がさらに尊敬してしまうほどが人が存在している事に少なからず驚いた。そして、自分より上の人を素直にほめる玲子もすごいと思った。おそらく、自分なんて足元にも及ばない世界に住んでいる人なんだろう。今の自分は、いろんな事が中途半端で、ふらふらしているけど、もう少ししたら、少しはましな人間になるつもりだが、自分から見てはるか彼方を突き進んでいる人が身近にいる事はちょっとしたショックだった。
「でも、よくそんなにたくさんの事をやっていく時間とかお金があるね」
「お金は大変みたいよ。親も普通のサラリーマンだって言ってたから、仕送りだってそんなに多くないだろうし。専門学校も資格を取りたいって、はっきり目的があるみたい。休みになると、集中講座とかにも行ってるんだって」
「なんかすごいなあ。私じゃ絶対できないなあ」
「私はもっとできないよ」
「玲子なら少しはできると思うよ。しっかりしてるもん」
 聡美は心の底からそう思った。
「ははは、一応ありがとうと、言っておくわ」
「もうすぐ、試験だね。勉強してる?」
「ううん、そろそろ始めようかなって思ってる。ノート集めが結構大変。それにレポート提出が三つあるのがきついよね」
「レポートかあ。私もやんなきゃ」
 そのとき、2年まで同じクラスだった数人のクラスメートが喫茶店は行ってきた。彼らは聡美たちに目をやるとすこし驚いたような顔つきをして離れた席に座り、アイスコーヒーを注文しているのが聞こえた。聡美が「行こうか」と言いかけると、玲子は
「今、でちゃダメ。あんな人たちはほっときなさい。聡美の髪型が変わったのが気になっただけよ」
「まぁ、それはそうなんだろうけど」
「それとさぁ、せっかく買った洋服どうするの?」
「それは大学まで着てきたいよ」
「じゃぁ、着てきた方がいいんじゃない?似合うし、ほとんどの人たちは聡美のことを知らないんだから」
 聡美はしばらく黙り込んでいたが、意を決したように
「そうだよね。明日から着てくるよ」
と言った。
 こうして聡美の本格的な女性装が始まった。

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