小説『ハーフ 【完結】』
作者:高岡みなみ(うつろぐ)

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 電話であらかじめ面談のお願いし、指定された木曜日の夕方に予備校の窓口に行った。指定された時間より10分ほど早く着いてしまったが、お茶をするにはあまりにも時間なく、かといって玄関で漠然と待っているのもためらわれたので、行ってみることにした。思えばフルタイムをはじめて初めての「公式」の場所である。聡美は心の中で「れいこ〜〜」と叫びたい気分だった。
 小さな会議室に通されて5分ほどすると初老の男性が入ってきた。聡美が履歴書を出そうとすると「ま、それはしばらくしてから・・・」と、予備校の概略を説明しはじめた。生徒数、組織、関連する専門学校などを流暢に話した。聡美は、内容より「説明しなれているんだろうなぁ」という方に気が行き始めていた。そのとき会議室のドアがノックされ、30過ぎくらいの男性が入ってきた。
「いや〜抜けられなくてすいません」と、さも忙しそうにしていた。
 首からぶら下げているIDカードを見ると「高橋」とある。初老の男性は
「じゃ、後はバイトをリクエストしたあなたの方で面談お願いしますね」と言って、部屋を出て行った。
 高橋は「予備校の概略は聞いたでしょ」と確認してきたので聡美は「はい」とだけ答えた。
「でね、やってもらいたいお仕事なんだけどね、メインは予備校の方のプリント作り。インターネット経由で中継している地方の校舎は原稿ををメールで送ってそれぞれで作ってもらってるんだけど、東京校は規模が大きいからプリントを作るにもかなりパワーいるんだよね。それに誤字脱字があったときダメージ大きいし。後は、雑務一般。出欠確認が多いかな。生徒さんと直接接することはないからそこは安心して」
 高橋は的確で最小限で必要なことだけをまず伝えた。
「じゃぁ、履歴書見せてもらっていい?」
「はい」
 聡美にとってはこの瞬間が最大の山場である。仕事の内容なんてどうでもいい。夏休みの間お金を稼げればいいだけなのだ。高橋は、一通り見て
「どう法学部っておもしろい?」と訊いた。
 聡美は意表を突かれた。
「はい、おもしろいですよ。・・・・」後が続かない。
「あぁそう、僕ねそういう文系の出じゃないからよくわかんないんだよね」
「理系なんですか?」
「いや、芸術。油描いてたの」
 高橋はそういいながら履歴書のその他欄を見ていた。
「はっきり訊くけどこの『本名:今井聡』って何?」
 予想していた質問ではある。こういう質問が来たらどう答えようかと思い悩んでいたのは事実である。聡美は裏返りそうな声を何とか押さえ込んで正直に答えることにした。もってきたバッグからは学生証を提示した。そこには中途半端に女性になり損なっている聡美の写真と本名、性別が記載されている。
 聡美は意を決して早口に言った。
「実は私は男性で、訳あって今ではこんな服装をしています。でも、決して冗談とじゃなくて、真剣なんです。履歴書には本来なら本名を書くべきだし、本当の性別を書かなきゃいけないことも分かっています。でも、それができなくて、『その他』の欄に書かせてもらいました。もし、このことが問題であるなら仕方がないのですけど」
 高橋は、しばらく何かを考えていたが
「別にかまいませんよ。本校には旧姓で仕事をしていらっしゃる方も大勢いますし、在日の方で日本名で仕事をしていらっしゃる方も大勢います。むしろこういう問題があるんだと先に言っていただいた方が助かります。何せ、経理と総務に言っておかないとやいのやいのとうるさいんですよ」
と、笑いながら言った。
 聡美は、今の自分がどんな表情なのかが心配になった。まさか半べそをかいた情けない顔じゃないことを祈るのみだった。
「すこし考えたのは給与の振り込みをどうするかだけですから。実際の仕事の内容はやってみないと分からない思うんですが、ここまでで何か質問はありますか?」
と、高橋は穏やかに言った。
 聡美は真っ白になった頭では何も浮かぶことなどなく
「いいえ」というのが精一杯だった。
 高橋はさらに続けた。
「じゃぁ、もう少し具体的な話しですけど、実は今夏期講習のプリント作りに手が足りていないんです。テキストは年度が始まるときに配布しているんですけど副教材はその都度作ることが多くて、正直なところ明日からでも来てもらいたいんですね。ただ、こちらも上司の了解とかいろんな事務手続きがあってそうも行かない。それに今井さんの都合をまだ聞いていないし」
 あしたからにでも?・・それはちょっと急な話しすぎてついて行けない。聡美は自分の授業のある時間帯を言うと高橋はノートにメモした。そして
「授業のない時間帯のうちどれくらいこれそうかな?」と訊いてきた
「早いほうがいいんですよね」
「そうね」
「前期試験の都合もあるので6時には帰宅して勉強に充てたいんですが」
「もちろんそうして。バイトして単位落としたんじゃ意味ないから。無理のない範囲でいいからね」
「それなら・・・」と聡美に当面は週に4回4時間ずつを、そして試験間際は週3回3時間、もちろん試験期間中は無理、と返答した。
「ふんふん、なるほど。了解了解。よく分かった。一応内定ってことで考えててもらっていいけど、正式には明日携帯に電話するから。授業中だったら留守電にいれておくから注意しててね。で、服装だけど、原則としてジーパンは禁止。でも、内勤だからカジュアルな格好でOKだからね」
 聡美は、半ば放心した状態で予備校の玄関を出た。夏休みのバイトを決めるはずがかなり早めにはじめることになりそうだ。しかも前期試験と重なる。それに、もっとも気にしていた名前の話しなどほんの1分もかからなかったのではないだろうか。予期せぬ展開というものは往々にしてあるものだ。それにしても、これからかなり忙しくなることははっきりした。
 そして、時給のことを訊くのを忘れたことを思い出した。

 翌日連絡があったのはちょうど昼休みだった。気を遣ってくれたのだろう。来週からバイトが始まる。

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