小説『ハーフ 【完結】』
作者:高岡みなみ(うつろぐ)

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 面接の時は高橋とはほとんど話さなかったので、よく分からなかったが、今日、聡美に説明する表情や、朝の忙しそうな姿からすると、とても明るく積極的に仕事をこなしている人のようだ。
 聡美は、食堂で軽い昼食を食べてから、IDカードをつけて、構内をいろいろと見て歩いた。どの教室も、学生で一杯だった。そして真剣な表情で講義を聞いているのが、廊下から見えた。自習室はとても広く、静まり返っていて、何人かの学生が机に向かっていた。これまで、聡美はこういう講義は聞いた事がなかった。地方の進学塾に行ってはいたが、それも大した目標もなく何となく通っていた。いわゆる予備校には行った事はなかった。ここに集まる人たちは、現役なのか浪人なのかは分からないが、自分の目標とする大学に入りたいのだろう。聡美は(多少、受検勉強の成績が良くても、多少、偏差値の高い大学に入れるだけだ)と思った。しょせん、どの大学に入っても、その大学より偏差値の高い大学があり、また、低い大学もある。そして、合格後に(もう少し頑張っておけば、この大学ではなくもっと上の大学に行けたのに)と、後悔する事になる。ここに集まっている学生たちは、何を目標にしているのだろう。ここでは皆が、自分の人生のほとんどが、今、この瞬間に決まってしまうかのような表情をしている。聡美は、一人一人になぜ受験勉強をするのか聞いてみたかった。
 聡美が十二時半頃に机に戻ると、高橋は、缶コーヒーを置き、菓子パンをもぐもぐと食べながらパソコンに向かっていた。
 聡美は文具の棚から必要になりそうな物を出していると、高橋は
「聡美さん、これやっちゃうから少し待っててね」
と、パソコンに向かったまま言った。
 事務所内には多くの講師が出入りしている。その中に「今井講師」という人がいて、区別するために「聡美さん」と呼ばれていた。
聡美が
「はい、私は構いませんから、ゆっくりやってください」
と、答えると、高橋はキーボードをカチャカチャ打ちながら、少し笑った。
 聡美は文房具をそろえ、辺りを見渡していた。教員たちも慌ただしく食事を済ませ、次の講義の資料の用意や、調べ物に忙しそうにしていた。この部屋の中でぼんやりしているのは聡美だけだった。(なんだかすごいところに来ちゃったのかな)と思った。「よし」という高橋の明るい声がして、机の横にあるプリンタが「ウィーン」と言う音と共に紙をはき出した。
「じゃあねえ、印刷機の説明をするから、ちょっとこちらに来てくれる」
と言う高橋に付いて、シェルビングの後ろに回ると、文字通り印刷機があった。
「これね、ちょっと古いタイプなんだけど、プリント程度ならこれで十分だから、まだ使ってるんだ。一応、二色刷りができるから、まあ、いいかなって思ってね。教材の方は印刷屋さんできちんと印刷してるから、きれいだよ」
と、高橋は言い訳めいて話し始めた。
「本当は、多色刷りでネットワークに接続できて、もっと高速な奴が欲しいんだけど、OKが出なくてね。まいっちゃうよ。リース切れてんのに、まだ使おうって言うんだもんな」
 聡美は(そんな話を私に言ってもらっても困るなあ)と、思いながらも聞いていた。おそらく、高橋はこの印刷機が不満なのだろう。
「じゃ、使い方を説明するけど、要するにコピーと同じで、原稿をここに入れて、枚数を指定して、丁合いかどうかを指定して、そして、開始ボタンを押す」
高橋は少し間を空けて続けた。
「と、その前に、枚数を1にして、合っているかどうか確認をする」
と、言って、枚数を1に変えて、開始ボタンを押した。原稿が印刷機の中に「シュッ」と音を立てて入っていったかと思うと、二十段くらいある用紙受けの一番上のトレイに「シュッ」とこれも音を立ててはき出された。そして、次の原稿が吸い込まれ、プリントが「シュッ」と、出てきた。聡美はあっという間に、原稿がコピーされ、呆気に取られていた。こんなに早くてどこが不満なのだろう。
「ここで、出てきたプリントが原稿と同じかどうか確認する。原稿の順番、上下、赤色が出ているか。OKなら、原稿と枚数をセットしなおして、開始ボタンを押す」
 今度は一枚の原稿を吸い込むと、用紙受けのトレイの上から順に次々とプリントが出てきた。紙の擦れる音とシュッという音が響いた。そして、しばらくしてからその音は急に止んだ。高橋は
「ね、遅いしうるさいんだよね。それに時々、紙を巻き込んじゃうし」
と、言った。聡美は「はあ」と答えるのがやっとだった。
「それで、後はプリントを綴じるんだけど、部数が少ない時はホチキスでいいけど、多い時はこっちを使って」
と、小さな機械を叩いた。
「使い方は簡単。こうやって紙をそろえて、このボタンを押す。ね、こっちは簡単でしょう。綴じたプリントはこの箱に入れて、全部終わったら、プリントの一番上にどの教官のプリントかが分かるように、教員名と部数を書いた紙を置いて、これで終わり。どう、分かった?」
「はい、一応分かりましたけど、用紙が無くなったり、原稿が詰まった時はどうすればいいんですか」
「用紙は、そこの用紙の箱から出して、印刷機のここにセットして。後はやりながら、説明するよ。原稿が詰まった時なんかは、ちょっとしたこつがいるんだ。じゃあ、残りを綴じて持ってきて下さい。僕は机にいるから」
 聡美は「はい」と返事した。実際、綴じはじめると、思っていたより時間がかかった。綴じ機は慣れないと、ホチキスでやった方が早そうだが、これだけの部数があると、自分の握力だと、すぐに右腕は使い物にならなくなるだろう。今の内に印刷機や製本機に慣れておいた方が無難に思えた。
 綴じおわるのには十五分ほどかかってしまった。
 聡美は「できました」と高橋の所に持っていった。高橋は、ちょっと確認すると
「はい、じゃあ次はこれね」
と、原稿を渡した。原稿枚数が十枚、部数が百二十部とある。(げっ、こんなにあるの)と内心思ったが、ここは素直に「はい」とにこっと笑いながら答えた。高橋は、そんな聡美の気持ちを察したのか、
「教員の原稿だと大体これくらいが普通だから、頑張ってね」
と、言った。原稿を見ると、数学の解説だった。(そうか、学生の反応を見ながら、解説のプリントを作るんだ)と思いながら、印刷機の方に向かった。
 用紙受けのトレイを数えてみると、三十段あった。という事は、一回で印刷できるのは三十部までと言う事になる。教えられたとおりに試し刷りをして、確認し、印刷部数を三十にセットしなおし、開始ボタンを押した。「シュッシュッ」と紙の擦れる音が響いた。高橋が言ったように、三百枚を印刷すると結構時間がかかる。その間に辺りを見ていると。幅の狭い本立てのような物があった。印刷し終わったプリントを部毎に立てておけるようになっていた。綴じている間に、次の印刷をするための工夫なのだろう。プリントの用紙も、普通のコピー紙より薄くて毛羽立っているような気がした。安く上げるために、あまり上等でない紙を使っているのだろう。そのせいか、印刷機の周りは、綿埃があちこちにたまっていた。
 しばらくすると、やっと三十部の印刷が終わった。聡美は高橋の言う(もっと高速の物が欲しい)という気持ちが分かった。毎日どれくらいのプリントを刷るか分からないが、かなり時間を費やす作業だと実感した。聡美は印刷されたプリントをプリント立てに移して、次の三十部を印刷しながら、その間に綴じ機で印刷されたプリントを綴じた。今度は、綴じる作業と印刷機が印刷するのとの競争になった。早く終わるためには、印刷機が終わる前には綴じ終わってないと、時間がかかってしまう。聡美には(なぜこんな事を人間がやるんだろう。機械化できそうな物だ)と思ったが、すぐに(機械を買うよりアルバイトが手でやった方が安くつくんだろう)と、思った。プリントを揃える時、何回か手を切った。それほど深くないが、ピリピリと痛んだ。これからはカットバンは必需品のようだ。まだ半分ほどしか綴じていないのに、印刷機の方はもう終わったしまった。たった十枚のプリントだが、揃えるのに時間がかかってしまう。焦れば焦るほど、プリントはきれいに揃ってくれない。聡美は半ばあきらめて、(自分のペースでやろう)と思いなおした。
 やっとの思いで印刷が終わった頃には、三時近かった。
 高橋は、「はいはい、どうもお疲れさん」と、笑いながら言った。そして、「ほんとに疲れたでしょう。少し休んでおいで」と、言ってくれた。

 聡美は「はい、そうさせて、もらいます」と答え、食堂へ向かった。食堂の自販機でコーヒーを買い、すぐ横の唯一喫煙所になっているテーブルにつき、煙草に火を点けた。聡美は、(早く慣れないと、躰がもたないなあ)と思った。また、私が来る前にはいったいどうやっていたのか、考えてみたが、高橋さんなら半分くらいの時間でできちゃうんだろうなと思うと、少し悔しかった。あんな単純な作業なのに思うようにできなかった。単純な作業だからこそ、差があるんだろう。
 聡美は一本の煙草を吸いおわると、教員室に戻った。高橋は、まだパソコンに向かっていたが、聡美を見つけると、教員室の座席表を見せながら、
「印刷した部数をもう一度数えなおすのと同時に、二十部おきくらいに、ページの順番や上下の確認をして、OKだったら、担当教員の席に箱ごと置いてきて」
と、言った。聡美は、「はい」と答えはした物の内心では(信用されてないなあ)と少し不満だったが、確認してみると、最後の三十部の最終ページが上下が逆になっていた。聡美は、高橋に「あのー」と、声をかけた。高橋はパソコンから目をはなさずに
「うーん。どうした?」
と、ちょっと気のない返事をした。
「最後の三十部の上下が逆になっていたんですが、どうしましょう」
 高橋は、聡美の方を向き、
「何ページ逆のがあった?」
と、訊いた。
「一ページです」
「じゃあ、それほどダメージないね。うん。良かった、良かった。そのページだけを三十枚刷って、差し替えておいて」
と、明るく言った。聡美が「すいません」と言うと、
「よくある事だから、気にしなくていいよ。ただチェックだけはよくするようにして下さいね。そのまま学生に渡っちゃうから」
と、言った。聡美は「はい」と返事をすると、プリント三十部と、最終ページの原紙を持って、印刷しなおし、綴じなおした。聡美は失敗作が三十部でまだましな方だと思った。綴じなおす時、ホチキスの針は外すのに、とても時間がかかってしまった。聡美は、綴じなおしたプリントを含めて、確認しなおして、座席表を見ながら、プリントを担当教員の机の前においた。

 こうして聡美のアルバイト生活が始まった。玲子とはなかなかのんびりと会える機会は減ってしまったが、その分深夜の長電話が増えていた。

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