小説『ハーフ 【完結】』
作者:高岡みなみ(うつろぐ)

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 約二週間の前期試験の期間の構内は混雑している。学食に入っても席が空いていない事も多かった。聡美はコンビニでサンドイッチとミルクを買ってから、五号館前のベンチに行ってみたが、空いている場所もないので仕方なく五〇一の階段教室に入った。階段教室の一番上から下を見下ろすと、何人かの学生がパンを食べていたり、本を読んでいたり、思い思いに自分だけの時間を楽しんでいるように見えた。それぞれが近くの空間にいるのに、それぞれが、自分だけの空間を持っている。聡美は自分もそのうちの一人に加わって、簡単な昼食を取りながら、ぼんやりと玲子を思っていた。
 聡美には二人の玲子がいる。聡の恋人だった玲子と聡美の友人の玲子。聡美は(玲子には、私はどう映っているんだろう)と思うと胸が詰まるような思いにかられる事がある。かつて恋人の聡と、男性を放棄しようとしている聡美。聡美は、すっかり変わってしまった自分に、友人として付き合ってくれる玲子にとても感謝している。それに尊敬もしている。聡美には、もしかしたら玲子に憧れて、玲子のようになりたいと思っているんじゃないかと、感じる時もある。
 聡美には玲子が私の事をどう思っているのか不安に感じる時がある。聡美に接してくれる時はとても頼もしく感じるけど、聡美の中の聡を見ているんだろうか。もしそうなら、今の自分がやっている事はひどく滑稽で残酷な事なのではないだろうかと、聡美には思えてしまう。玲子は聡が作った架空の人間に付き合っているだけで、聡美を認めていない事になる。聡美自身としては聡という存在を否定して、全く新たな聡美という人格を作ろうとしているつもりである。まだ生まれて間もないので、未成熟な部分も多いが、いつか、できるだけ早い時期に独り立ちできるようになりたい。何か自分が熱中できるような物を見つけ、さまざまの人とかかわり合って自分自身の人格を高めたい。今はまだ具体的な行動はしていないしできないと思う。行動できるために幾つかのハードルを越えなくてはならないのは分かるが、どのようなハードルがあるのかさえ、良く分かっていない。
 外見上はずいぶん変わったと思う。聡の頃の知人が今の聡美を見ても分からないかも知れない。しかし外見を変えても自分が本来持っていた物が変わったとは言い切れない。全く別の自分になりたかったから、現在の聡美がここにいる。そして、明日は今日とは少し違う私になっているはずと、聡美は思った。どこがどれくらい変わったなんて分からないが、きっと昨日より今日、今日より明日とゆっくりと変わると思った。

 聡美がのろのろと食事をしていると、午後の試験開始十分前の予鈴がなった。聡美は階段教室を出ると、五〇二教室に向かった。今日はこの哲学の試験で開放される。聡美は今まで所、一度も欠席せずに受講したし、ノートもほぼ完璧に取っている。Aを狙っている科目の一つだった。教室に入るとすでに半数以上の席が埋まっていた。そんな中に、以前喫茶店で見かけた二人組みを見つけた。彼らはちらっと私の方を見たが、気に止める様子もなく笑いながら何か話していた。人の視線が突き刺さるように感じていた春の頃から思えば、ずいぶん、成長したと、我ながら思った。
 空いている席に着き、しばらくすると、問題用紙が配られた。学年、学部、学生番号、名前を記入する。『今井 聡』と記入する。今はまだ越えられないハードルがある。自分以外の意思で決定した物に、自分が縛られている。名前、性、国、時代……自分で決めた事じゃない事が、なんと多い事か。聡美はつい考え込んでしまいそうな感情を振り払い、試験に集中した。自分がどこまで哲学を理解しているかを試したかった。もちろん、それは深く掘り下げた物ではない事は分かっているが、試験ではAを取りたかった。
 試験は、教科書さえ読んでいれば分かる問題、講義を聞いていないと分からない問題、そして、かなり深く理解していないと解けそうにない問題とはっきり分かれていた。教授の合理的な信念のような物を感じた。聡美はかなりの時間を余らせて全ての解答を埋める事ができた。三回内容を見直して、途中で退室した。
 明日は、必修の民法、一般教養で履修した経済原論、近代経済学の三科目ある。経済原論は、出題される範囲が広く、Aを取るのはあきらめていたがせめてBは取りたかった。他の二教科はAが欲しかった。今日はどこにもよらず、真っ直ぐアパートに帰る事にした。

 午後も三時近くになると、少しは暑さがやわらぐ感じがした。埃っぽい公園を抜けるとすぐに駅に向かう地下道に入った。冷房が程よく効いていて、少し汗が引く感じがした。携帯電話を耳に当てしきりに頭を下げるサラリーマン、一塊になって大きな声をあげるおばさんたち、冷やかな目をした小学生、こんな狭い空間にもいろいろな人がいて、別々の考えをして、それぞれの方向に歩いている。それぞれの価値観をかいま見る事ができたら面白いだろうな、と思いながら、聡美はゆっくりと歩いていった。
 電車から降り夕食の買い物をしてから、坂道の登る頃には、太陽も少しは傾き少しオレンジ色が混ざった光を放っていた。部屋に入るとまず窓を開け空気を入れ替えた。夏の熱気が部屋中にあふれていた。買ってきた夕食の材料を冷蔵庫にいれ、ついでにウーロン茶をグラスに注いだ。キッチンの椅子にドッカと腰を下ろすと、煙草に火を点け、大きく煙を吐いた。
「ふう、何か疲れちゃったなあ、今日は」やはり、試験期間は緊張が続くので、結構きつかった。去年までは、そこそこの勉強をしてそこそこの成績でいいと、思っていたから、ほとんど緊張はしなかった。しかし今年は、どうせ大学にいるんだから、吸収できる物は何でも吸収したかったし、どれくらい吸収できたかを知るには試験という物ではっきりさせたかった。しかし、その結果が、去年と大きく変わるとは思わなかった。せいぜいAが一つ二つ増える程度の違いだと思う。しかし、聡美に取っては、大切な事のように思えた。明日の試験を乗り越えれば、後は一日に一教科のペースになり、かなり楽できる。
 窓を閉めシャワーを浴びてから、FMをつけ、缶ビールを開けた。外の暑さとシャワーで火照った躰にエアコンの風が心地よかった。誰もいないけど孤独でもないこの空間をしばらく楽しんでから、ドリアと出来合いのサラダで夕食を取った。
 部屋の明かりを少し落として、机のスタンドをつける。聡美はいつもこうして勉強していた。この何日かは睡眠不足がちだったが、明日が終われば一息つけると思うと、妙に集中する事ができた。就寝の目標を三時にして、自分なりに各教科の時間を配分した。一教科当たり三時間くらいとれるが、とても十分とは言えない時間だ。
 町の雑踏も、ほとんどしなくなった頃、不意に電話の呼び出し音がなった。聡美はびくっとし、電話を取る時も、心臓が拍動が早く打つのがわかった。受話器を取ると、相手は玲子だった。
 玲子は
「明日の試験って何時頃終わるの?」
と、屈託のない声で言った。聡美は(もう電話なんて嫌いだ。だいたいこっちの心の準備がなくても平気で鳴るなんて非常識だ)と思いながら
「二時半だよ」
とぶっきらぼうに応えた。玲子は
「あれ、この電話って間が悪かった?」
と、言った。
「うん。思いっきり悪かったけど、誰のせいでもないのが悔しいの」
「じゃあ自分が悪いんだ」
と、玲子が言った。聡美は(あっそうか、自分が悪いと考えればいいのか)と妙に納得しながら
「何かあるの?」
と玲子に聞いた。
「そっちは明日が山なんでしょ。だから、山を越えたという事で、何か食べない?」
 聡美にはその理由には納得できないが、食べる話はいいなあと思った。試験期間の前半は好調に乗り切れそうだし、ちょうど少し休みたいと思っていた。聡美は試験に入ってからは、夏の暑さで食欲がない上、料理に時間をかけたくなかったので、あまりきちんと食事をしていなかった。
 聡美は
「二時半、五号館前でいい?」
と言うと、玲子は
「OK。じゃ、またね」
と、言い残し電話を切った。
 時計を見ると十時を少し回ったところだった。四時間近く休まずに勉強していたが、玲子の電話は、ちょうど休憩を取るタイミングを作ってくれた。そう思えば、絶妙のタイミングの電話とも言える。
 聡美はアイスコーヒーを入れて、煙草に火を点けた。TVをつけようかとも思ったがそれは止めておいた。FMをつけると、静かな曲を流していた。高台にあるこのアパートの窓からは住宅街の屋根が重なるように見える。ベランダに出てみると、夏の熱気がまだ残っていた。隣の部屋からはテレビの音と話し声が漏れていたが、聡美がベランダに出た気配を察したのか、窓を閉める音と、シャッとカーテンを引く音が聞こえた。聡美は、私から自分を隠そうとする隣人に、申し訳なさを感じた。決してのぞき見るようなつもりでベランダに出たのではないのに、隣人は間合いを詰められたと感じのだろう。何気ない事がとても大きな意味を持つ場合があるのだ。聡美は、どこまでも続く屋根を眺めながら、自分と自分以外の人とのかかわり合い方の難しさを感じた。妹の奈津美との接し方と、玲子に対する接し方、親に対する接し方、見ず知らずに他人に対する接し方これらはみんな違う。あたりまえの事だけれど、接する時に自分できちんと考えていない時が多い。だから、つい、甘えられる人には甘えてしまうのではないだろうか。もっと自立しないといけないのではないか。
 ベランダでぼんやり立ち尽くしていると、また、電話がなった。ふと時計を見ると、十一時に近かった。今度の電話は奈津美だった。
「お兄ちゃんは今度夏休みはいつ帰るの?」
 別に避けていた訳ではないが、積極的に話題にしたい事ではなかった。帰れば当然、親に今の姿を見られてしまう。帰らないというより帰れないと思っていた。聡美は
「あ〜まだ言ってないけどバイト決めちゃったんだ。そっちは?」
と、奈津美に問いかけた。
「私は試験が終わったらすぐに帰るつもり。今って試験期間でしょ。こっちもそうだから、試験終わったら、また、お兄ちゃんの所に行くね」
「うん。じゃその時にまた話そうね」
 聡美は一体何を話すのか、自分でも思いあぐねていた。
 帰省すれば今の聡美を、両親の前にさらけ出す事になる。自分では「これしかない」とはっきり言えるような物は今のところ何もない。自分自身がまだまだ未熟で、誰かに説明ができるとは思えない。特に両親というのは特別な存在だと思う。自分と価値観が違う事ははっきりしているが裏切る事ができない最も近い存在だと思う。だから、自分の事をいかに親に分かってもらうか、聡美にとってはとても重要な事のように思えた。聡が聡美になる事は、自分だけの問題ではない。これまでかかわってきた人たちの合意なしには成立しないものだろう。
 ラジオから時報がなった。思わぬところで時間を取ってしまった。(今は試験期間中なのだ。そして、私は、努力して良い成績を取ろうとしているのだ)と、自分に言い聞かせて、びっしり露をつけたアイスコーヒーのグラスが置いてある机に向かった。

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