小説『ハーフ 【完結】』
作者:高岡みなみ(うつろぐ)

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 奈津美から電話があったのは、カーテンを取り替え終わって、シャワーヘッドの交換をしている時だった。
「今日、家に帰るけど、その前にちょっとそっちに寄ってくね」
 聡美が、「何時頃になりそう」と訊くと、奈津美は「お昼前には行けると思う」と、答えた。
 奈津美がやって来たのは十一時半頃だった。聡美が
「すごいじゃん。時間通りに来るなんて」
と茶化すと、奈津美は
「当然よ。今日はちゃんと早起きしたもん」
と、言いながら紙袋を開きはじめた。
「何持ってきたの」
「捨てるのもったいないから、お兄ちゃんに使ってもらおうと思って、冷蔵庫の中身を持ってきたの。それと、これは今日のお昼。サンドイッチだけど、いいでしょ」
 聡美は「ありがたく使わせてもらうね」と、言い、冷蔵庫から麦茶を出しながら
「今日の何時の列車で行くの?」
と、訊いた。
「別に決めてないけど、夕方には家に着きたいな」
「切符は買ったの?」
「ううん。自由席で行く。座れると思うけど、もし座れなくても二時間くらい立っててもいいから」
 奈津美は「お昼にしようよ」と、紙袋からサンドイッチをテーブルに出した。
「ここのサンドイッチおいしいんだよ。いろんな種類があって、見てるだけでも楽しくなっちゃうくらい。ちょっと高いけど、それなりにおいしいんだ」
 聡美は
「アイスコーヒーでも入れようか」
と、言いながらコーヒーメーカーをセットした。奈津美は、部屋を見回して
「何かこの前に来た時と雰囲気が違うね」
と、言った。
「そうでしょ。まずカーテンが違うんだよ。」
 グラスと、氷を準備しながら、聡美は少し自慢げに答えた。
「試験が終わってから、模様替えをしようと思ったんだけど、動くと暑いから、少しずつやってるの。そのカーテンね、蒲田で布とテープを買ってきて自分で作ったのよ」
 コーヒーの香りが部屋一杯に広がってきた。
「前のカーテンって、いかにもカーテンですって感じで重かったから、今度はプリントにしたの」
 聡美はカチャカチャと氷をグラスにいれて、熱いコーヒーを入れて、スプーンで氷が溶けるまでかき回しながら、言った。
「部屋全体が軽くなった気がするでしょ」
 氷が溶けきると、大きめに割った氷をグラスに入れ、テーブルまで持ってきた。奈津美は
「へえ、器用ね」
と、言った。
「カーテンなんか、凝らなければ、器用じゃなくたってできるわよ。何か切ろうか」
「じゃ、手伝う」
「いいよ。座ってて」
と、言いながら聡美はトマトにキュウリをさっと水で洗い、ナイフを入れた。
「お兄ちゃんも偉いね。ちゃんと冷蔵庫にこういうのが入ってるんだ」
「少し前に玲子に刺激されたの。食事くらい作れなきゃいけなんだって」
「いつまで持つかなあ。案外すぐに冷凍食品に走ったりして」
 奈津美の持ってきたサンドイッチは確かにおいしかった。パン自体もどっしりとした味の物や、軽い味の物というふうにいろいろとバリエーションがあり、具もハムや卵やレタスも味付けやドレッシングがとてもパンと合っていた。
「これおいしいね。どこで買ったの」
「うちのアパートの近所のパン屋さんだけど、結構遠くからも買いにきてるみたいだから、間違いないと思うよ」
「うん。これはどう頑張っても作れないなあ」
 二人で黙々とサンドイッチを食べていると、何となく気まずい沈黙があった。その沈黙から逃げるように、聡美が口を切った。
「これが用事じゃないんでしょ」
 奈津美は、
「うん。いろいろ訊きたい事や話しておきたい事があったけど、なんだか、この部屋に来たら、どうでもいいかなって思えてきちゃった」
と、言った。
「どうして?。これからどうするのって聞きに来たんじゃないの」
「そのつもりだったんだけど、お兄ちゃんはもう決めてるんでしょ。私が、無責任に立ち入れないような気がする。少しだけど私の知らないお兄ちゃんというか、聡美さんが、現れたというか、そんな感じね」
「自分ではどうしていいのか分からない事だらけね。何も決めてないし、ぶつかってばかりだもの。まだ、トイレでどちらに入ろうか迷っちゃうし」
「で、どちらに入ったの」
「人がいなそうな時に、さっと女性用に入った」
「それって正解だと思うよ。女性に見えるんじゃないかな」
「そう?」
 聡美は少しだけ笑みを漏らした。
「うん、そう思う。今もお化粧してるでしょ。さまになっているもん」
「そういわれると、嬉しいような、そうでないようなちょっと複雑な感じね」
「顔が喜んでるよ。でも、後は髪よね。そろそろカットに行った方がいいんじゃない?」
「うん、もうずいぶん行ってないから、ボサボサしてるでしょ。でもねえ、結構勇気がいるんだよ。たぶんカットしてくれる人だと男性だって分かると思うんだ。それって何か嫌なのよね。自分がとても中途半端な気がして」
と、聡美はアイスコーヒーに手を伸ばしながら言った。
「前はどこに行ったの」
「二つ先の駅前の美容室」
「で、どんな感じだった」
「何も言われなかったし、だいたい思ったようにカットしてくれた」
「じゃあ、今度もそこに行けばいいんじゃない」
「そうなんだよね、迷っても仕方がないし、さっさと行けばいいんだよね」
「でも伸びたね。伸ばし始めてからどれくらいたつのかしら」
「意識してだと、四ヶ月以上ね。前髪は自分で切ったりしてるけど」
「お兄ちゃんの髪って真っ直ぐできれいね」
「ありがと。遺伝じゃない。お母さんの髪きれいだもん」
 聡美が最後まで残ったキュウリをコリコリ食べている時、奈津美は言った。
「さあてと、食べる物は食べたし、そろそろ行くけど、お母さんには何て言っておけばいい」
 こう訊かれる事はずうっと前から分かっていた。そして聡美はきちんと答えたいとずうっと思っていた。しかし、聡美にはその答えを見つける事はできなかった。本当の事を伝えて貰えば後で問いただされる事は容易に想像できた。しかし、隠していてもいずれは問いただされる。そしてその時どうすればよいのだろう。自分を貫き通して両親を失望させるか、自分を曲げて元に戻るか。二つに一つしか解答はないのだろうか。もっと別の何かがあるのではないか。そして、何よりも私はどうしたいのだろう。聡美は今もまだ何もい言えなかった。
「正直な所、自分でも分からないの。きっとお母さんは、何かおかしいと思っているでしょ。でも、こんなふうに変になっちゃったとは思っていないと思う。だから、当たり障りのないようにして、今、お母さんがどんな調子か私に教えてくれないかなあ。」
「えー。そんな器用な事できるかなあ。何か今日帰ったらすぐその話になるような気がするだけどな」
「そうだよね、やっぱり。今日奈津美がここに来る事って、お母さんは知ってるの?」
「話してないから知らないよ」
「じゃあさあ、別に変わった事はないって言ってくれないかなあ。今年はなんだか忙しいから、帰れないみたいだって事にして話してもらえない?」
「でもきっとすぐに電話が来るわよ」
「それまでには何か考えとくよ。だから奈津美からは、電話で様子を教えてよ」
「何か、気乗りしないけどそれしかないみたいね。何とかやってみるわ」
「ごめんね、よろしくね」
 逃げているのは自分自身が一番よく分かっている。しかし、今は逃げるしかない。
 奈津美は
「今の時点でいいんだけど、ちょっと訊いていい?」
と、言った
「うん、何?」
「お兄ちゃんて、いわゆる、ゲイとかニューハーフとは違うんだよね」
 いかにも奈津美らしい直接的な質問だった。聡美はそういうふうに考えた事が一度もなかった事に、聡美自身が驚いた。第三者から見ればそう見えて当然だ。
 聡美は
「うん、違う。と、思う。少なくともゲイじゃないわね。男性に対して魅力を感じないもの。一般的に言うニューハーフってちゃんと分かってないけど、たぶんそれも違うと思う。話が矛盾してるかも知れないけど、別に女性になりたいと、強く望んでいる事はないのよ。ただ、男性であるという事にすごい疑問と反発心を持っている事だけは確かね」
とぼかした返事をしておいた。
「うん分かった。じゃ、私そろそろ行くけど、あまり無理しないでね、ちゃんと食べる物は食べてね。ずいぶん痩せたから」
「ありがと、気をつけるわ」
「じゃあね。また電話するね」

 奈津美が行ってしまうと、聡美は気が抜けたようにぼんやりとしていた。奈津美が、聡美を本当に理解したとは思えない。聡美は(自分でもよく分かっていない自分自身の事をどう分かれというのだ)と、思った。
きっと頭のいい奈津美の事だから、うまく母親に言ってくれると思うが、きっと母は心配して何か言ってくるだろう。電話が来た時は、その時の雰囲気や、話の流れでできるだけの事をするしかなった。
 聡美は奈津美の言った「ニューハーフ」という言葉が心のどこかに引っかかっていた。ニューハーフと言われると、どうしても妙な感じがしたが、実際にはほとんど同じなのかも知れない。彼ら、または、彼女らはどういう考えで、女性になろうとしたんだろう。人によっていろいろな理由があるだろうが、私のように、男性という物を否定する事から、女性になろうという理由からだろうか。ただ言えるのは、他の誰かの理由を推測する事より、自分の心の中をもっと見つめる事の方が大切だという事だった。聡美にはあまり多くの時間はないと思えた。

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