小説『ハーフ 【完結】』
作者:高岡みなみ(うつろぐ)

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 翌朝は、自然に目が覚めた。部屋の中が膜が張ったようにぼんやり見える。ベッドの中で大きな伸びをして、目覚まし時計を見ると、六時過ぎだった。聡美は(昨日は目覚ましもかけずに寝ちゃったんだ)と、思いながら、ベッドに腰掛けた。朝の光の中でスタンドが取り残されたように点いていた。キッチンには昨日の食べ残しのパスタがわびしく残っている。
 聡美はコーヒーを入れている間に、脱ぎっぱなしになった服や昨夜残したパスタを片づけて朝食の準備をした。聡美は(昨日は、あまり食べていなかったから、今朝はきちんと食べておこう)と、思い、目玉焼きやサラダを作り、ゆっくりと時間をかけて食事を取った。
 聡美は身支度をし、ベランダに出た。ベランダの朝顔たちは、つるをしっかりと手すりに絡ませて、とても元気に花を開いていた。花たちは聡美とは無関係に咲いているのだろうが、聡美にはとても心をなごませてくれた。聡美は、たっぷりと水を与え、「行ってきます」と言ってみた。もちろん大輪の朝顔達は何も言ってくれない。今朝の朝顔達はとてもそっけない気がした。
 今朝は昨日より三十分ほど早い。玄関を開けながら(今日はいい日でありますように)と、心の中で思った。電車の中は昨日よりは少しは空いていた。代々木に着いてから、コーヒースタンドに寄ってアイスコーヒーを楽しむくらいの時間の余裕があった。聡美は(明日からもこれくらい余裕を持って部屋を出よう)と、思って、窓の外を見ながら、ゆっくりとコーヒーを飲んだ。
 ゆっくりとコーヒーの香りを楽しんでいると、ガラス越しに高橋が通りすぎて行くのが見えた。聡美は一瞬(あれ)と、思った。職員も九時始まりと聞いている。今の時間だと始業の三十分くらい早く着くだろう。(高橋さんも競争の中で仕事をしているんだ)と、思うと、気の毒に思った。聡美は(私は、アルバイトという特権を目一杯使わせてもらおう。ある程度ぎりぎりの時間まで少しの時間でもゆっくりした時間を持たないと、身の心も持たない)と思った。煙草を二本ほど灰にした後、予備校に向かった。

 聡美が教員室の自分の机に着くと、高橋は、パソコンに向かって、しきりにキーボードを打っていた。「おはようございます」と、声をかけると、昨日と同じように、画面から目を放さずに「おはよう。来たね」と明るい声で応えてくれた。聡美は、席に腰を下ろし、昨日から置かれているノートパソコンに電源を入れた。しばらくして、画面上にいろいろなアイコンが現れた。(今日からは、このパソコンで資料作りをするのか)と思うと少し気が重かった。 玲子自身もパソコンは持っている。しかし大半はネットを見るかメールを書くかに費やされ、表計算はおろかワープロすらほとんど立ち上げていないかった。聡美は昨日高橋から、教えてもらったワープロソフトを立ち上げた。真っ白な画面の上の方に、小さなボタンが並んでいた。聡美にはそのボタンにどんな意味があるのか、まだ全くといっていいほど分からなかった。辛うじて「保存」と「開く」のボタンだけは覚えていた。何も書かれていない広い「紙」に当たる部分に「何かを書く」事は分かっているのだが単純に文字を打つだけであることを祈るのみだった。聡美はとりあえず高橋が渡してくれた入門書の目次を眺めていた。いろいろな文書が簡単に作成で気というような目次だが、本当だろうか?
 そもそも、聡美が持っているパソコンのソフトとはバージョンが違い過ぎて、使い方が全く違う。
 聡美は、軽い絶望感を感じはじめた。(今日から、プリントも作るって言っていたけど断ろうか。でも初めてなんだからしようがない。慣れてしまえば大丈夫だって、高橋さんも言っているし)いろいろな思いが、聡美の頭の中を、駆けめぐっていた。
「さてと」
と、高橋が声を上げた。聡美がふと声の方を見ると、高橋は
「こんなもんかな」
と、1本のUSBメモリーを手にして聡美の方に近づいてきた。
「これを印刷して、誤字脱字をチェックして、間違っている所を直したら、二十四部印刷して、別名保存して戻してくれる?」
と、言った。頼まれて「ノー」と言う返事をできるわけでもない。引きつった「はい」と言う返事し、USBメモリーを受け取った。
 聡美は、受け取ったUSBメモリーに一つだけ入っているファイルを読み込んで印刷し、一字一字を、丹念にチェックした。いくつか、誤字が見つかった。聡美と高橋とでは、三十分ほどしか出勤時間が違う程度の筈だ。最大を見積もっても一時間程で、このファイルを作ったのだろう。それとも、昨日から作っていたのか、または、もっと短い時間に作ったのか、聡美には分からないが、少なくとも、聡美の何十倍も早く作ってしまったのだろう。高橋と聡美では、これまでの仕事をしてきた時間が絶対的に違う。高橋が仕事が早いのは当然と言えばあたりまえなのだろうが、聡美には(何年かこのような仕事をしていれば、私もこんなに仕事ができるようになるのだろうか?それとも、私にはこんなパソコンを使う仕事なんて向いてないんじゃないか?)という疑問が胸の中からこみ上げてくるのが分かった。
 
 印刷と製本が済んだのはUSBメモリーを受け取ってから、二時間が過ぎた頃だった。あいにく高橋は見当たらなかった。でき上がった物を高橋の机の上に置き、休憩を取りに食堂に向かった。昨日と同じように数人の学生たちが早い昼食をとっていた。そんな中にはノートパソコンに向かって、キーを打っている学生もいる。(最近はパソコンって珍しくないだな)と、自分が取り残されているような気がした。
 聡美は少し早い昼食を取り、コーヒーと煙草を楽しんでから教員室に戻った。高橋はすでに自分の机に戻っていた。
「食事してたの?」
という、高橋の声の調子はいつも明るい。聡美はできるだけ明るく
「いいえ、休憩だけです」
と、答えた。
「プリントはあれで良かったですか?」
という聡美の問い掛けに、高橋はこれも笑顔で
「バッチリ、OKだよ」
と、答えた。聡美は内心びくびくしていたが、ひとまずホッとできた。
「次は何をやりますか」
と、聡美は高橋に訊いてみた。何が出てくるか分からないのでとても不安に感じるが、受け身になって指示を待っている何とも言えない時間を過ごすのはどうも居心地が悪い。できるだけ早くやるべき仕事を覚えて、そんな居心地の悪さから抜け出たかった。
 高橋は遠慮がちに
「ちょっと面倒な仕事なんだけど、お願いしていいかなあ」
と、言った。聡美は「はい」と答えたが、やはり一抹の不安は残る。でもやらないと覚えないからいつまでも不安を抱える事になる。と、いうように心がフラフラしていた。高橋もそんな聡美の様子を感じたのだろう。
「仕事なんて急に全部ができるわけないんだからゆっくり覚えてくれればいいよ」
と、言った。
 その仕事は各生徒の出席状況のまとめだった。今度は表計算ソフトを使うとの事だった。高橋からもらったファイルにはすでに各コース別クラス別に学生を一覧表にまとめてあった。それぞれの授業を各学生が出席したかどうかを、入力する物だった。
 出席カードが、各授業毎に出席カードがまとめてあった。それを元にして、入力すればいい。表計算のソフトは使ってみると、難しい事ではなかった。聡美にはここで入力した物がどのように使われるのかは分からないが、ともかく言われた事をやるだけだった。
 しかし、その数はとても多かった。不慣れな事もあって、午後の五時を越えてもまだ終わらなかった。聡美は高橋に
「すいません。まだ終わってないのですけどどうしましょう」
と、訊いてみた。高橋は意外なくらい
「あ、いいよ。明日続きをやってください」
と、言ってくれた。聡美は後ろめたさと開き直りを半々に胸に感じながら
「じゃ、すいません。お先に失礼します」
と、教員室を後にした。
 聡美は昨日と同じような時間に代々木駅に向かった。今日も疲れはしたが、そのまま家電量販店に寄った。込み合う店内でうろうろとしていたが、やがて初心者向けの入門書を買い、アパートに戻った。
 今日の夕食はドリアとコンソメスープ。冷凍にしてあるご飯を解凍し、市販のホワイトソースをミルクで伸ばしながら冷凍のままのシーフードミックスとホットベジタブルを入れ温める。ご飯をバターを塗ったグラタン皿に敷き、ホワイトソースをかけ、オーブントースターへいれる。焼いている間に、コンソメをお湯で溶かしタマネギのスライスをいれる。手抜きだが昨日よりはましな夕食を準備した。テレビをつけると、生真面目な顔をしたキャスターが海外の内乱を報じていた。あまり食欲が沸く話題ではないが、何とはなしに眺めながら熱く焼かれたホワイトソースを口に運んだ。あまり味を感じない。玲子ならこんな時でもきっともっとおいしく作れるのだろう。それとも、味を感じないのは疲れているせいなのか。
 昨日今日と普段使わないような頭の部分を使った。疲れて帰ってきたが緊張がほぐれない。夕食をのそのそと口に押し込みながら、聡美はだんだんと憂鬱な気持ちになってきた。ドリアを少し残し、缶ビールを開けた。テレビは金融不安の話題に変わっていたが、(私はもっと不安よ)とテレビに八つ当たりしたい気分だった。
 買ってきた入門書をパラパラとページを繰ってみたが、何が何だかさっぱり分からない言葉がいっぱい出てきた。(この本がマニアックすぎるのか?)初心者向けとあるが聡美の知りたい事は何も載ってない。昼間、入門書を読んでいた時のもどかしさが蘇って来てしまい、憂鬱さが増すばかりだった。やっぱり向いていないのか?そのうち慣れる事ができるのか?今はそんな目先の事で頭が一杯だった。ビールを一缶、空けたところで、入門書は放り出し、シャワーを浴びた。熱めのお湯で肩や背中を叩いていると、少しは落ちつく。顔を落とし、髪を洗い、ブラシで手足を擦るうちに少し酔いが回って来て、頭の中がぼんやりとし、やっと自分の躰がリラックスし始めた。何だか、ついさっきまで憂鬱な気分になっていた自分がばからしく思える。少し曇った鏡を覗くと、そこには疲れた顔があった。聡美は(明日、高橋さんに聞いてみよう)と、思いなおして、今夜もゆっくり寝ようと心の中で決めつけた。
 シャワーの後ウーロン茶を少し口に含むと、急に眠気が落ちて来た。目覚まし時計をセットし、ベッドのシーツを伸ばし、枕を叩いて、スタンドを点け、蛍光灯を消す。いつもの睡眠儀式を一通り済ませると、いつもの自分に戻れた。聡美はグラスに冷えた白ワインを注ぎベッドサイドまで運び、ゆっくりとマットに身を投げた。(明日もいい日でありますように)聡美はすっと眠りに落ちる事ができた。

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