小説『ハーフ 【完結】』
作者:高岡みなみ(うつろぐ)

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 翌日、高橋は少し大きめのブリーフケースに入ったノートパソコンを聡美に渡した。
 聡美は「本当にありがとうございます。これ、気持ちです」と、小さなクッキーの缶を手渡した。昨日は、プリントを印刷しながらいろいろと考えたが、相手の気持ちを深く詮索するような事はしないで素直に借りておこうという結論になった。
 しかし、何もしないのでは、自分の気持ちが落ち着かない。自分の心の中での妥協点が、少し高級なクッキーだった。高橋は、そのクッキーをとても喜んだ。何の見返りも考えていないかのようだった。パソコンとクッキーの交換は、二人にとってとても嬉しい事だった。
 高橋は、今日の仕事として、昨日の作業の続き、教員への連絡票の作成と、プリントの作成を聡美に渡した。聡美は仕事を受けた時(今日一杯かかるかな)と、思った。どちらを先にやるかを高橋に訊ねると
「どちらでもいいよ。今日中にできないようなら、早めに言って下さい」
と、言った。プリントの作成は時間を見積もれたが、連絡票の作成はやってみないと分からない。聡美は(午前中に昨日の続きと連絡票ができないようだと、たぶん間に合わないな)と思い、昨日の続きから取りかかった。
 高橋は例によってパソコンに向かったまま無言で何かしている。聡美の席からは高橋の画面を見る事はできない。ただ高橋の表情からとても集中して作業している事だけは分かる。聡美は(あまり邪魔しないでできるかぎり自力で連絡票を作ろう)と、入門書やヘルプを懸命に読みながら、作業を進めた。
 連絡票の元となる手書きの原稿はこのままコピーしてもいいくらいきれいな読みやすい字で書かれていた。聡美は(高橋さんの性格が出てるなあ)と、少しおかしく思った。一つ一つのキーを確かめるようにゆっくりとキーボードを指先で叩いていると、すぐに時間が過ぎてしまうのは昨日までと変わりはなかった。しかし、少しは慣れてきたようだ。少しずつだが指がキーの位置を覚えてきたのが自分でも分かった。聡美は、初日に高橋が(すぐに慣れる)と言っていたのを実感していた。聡美は十二時前には何とか連絡票を完成する事ができた。

 聡美は食堂が込み合う前に食堂に行く事ができた。聡美がやけにべたべたしたチャーハンをつついていると、不意に後ろで高橋の声がした。
「聡美さん、まずそうに食べるね」
 聡美がむせそうになると、高橋はおかしそうに
「いやあ。ごめん、ごめん。驚かせるつもりじゃなかったんだよ」
と、笑いながら隣の席にA定食のトレイを置いた。
「どう、少しは慣れた?」
「ええ、何とか……」
 聡美は曖昧な返事をした。
「それなら良かった。退屈な仕事かも知れないけどがんばってよ。期待してるから」
 高橋は人なつっこい目で聡美を見た。
「私なんか期待に応えられかどうかは分かりませんけど……」
 と、聡美が言うと、高橋は間髪入れず言った。
「だいじょうぶ、だいじょうぶ。僕が保証するよ。聡美さんならだいじょうぶ」
 聡美はあまり「だいじょうぶ」を繰り返されてかえって恐縮してしまった。高橋は、そんな聡美の気持ちを察したのか
「本当にそう思っているよ」
と、続けた。高橋はA定食を着々と口に運びながら
「聡美さんっておもしろいよね」
と、言った。
「えっ、そうですか」
「うん、おもしろい」
 どうやら言葉を繰り返すのが口癖なのか、高橋は「おもしろい」を繰り返した。
「なんて言うか、そう、なんだか一生懸命やっているんだけど、それが実にいいんだよね。まっすぐ見てると言うか、前しか見えないと言うか、そんな感じがしておもしろいんだよね」
 聡美は、どう答えていい物か考えていると、高橋は
「あっ、言っておくけどいい意味だからね」
と、言った。
「たぶん融通が効かないんだと思います」
「ああ、そういう言い方もあるかも知れないね。でも悪い事じゃない」
「そうでしょうか」
「そうだよ。変にずるいよりずっといい」
「私、不器用で要領が悪いんです。何やるにしても」
 聡美はレンゲでチャーハンをつつきながら言った。つい半年ほど前まではそんな事は考えた事もなかったが、最近では自分自身を持て余しているのが痛いほどよく分かった。自分がどうしたいかもよく分からないような者が器用な訳がない。聡美は高橋が「まっすぐ」とか「前しか見えない」と言う意味がよく分からなかった。そして、明るい声で人の心を覗き込むような事を言う高橋をうっとうしく感じた。
「ところで、高橋さんは結婚してるんですか」
 聡美は話題を変えたかった。
「いや、してないよ。と言うより結婚のようなことをしていたと言う方が正確かな」
 高橋は少し言いにくそうに、しかし、笑顔のまま答えた。聡美は(まずい話題だ)と思ったが、これは不可抗力という物だ。しかし、気まずい。
「あっ、変な事を訊いたみたいですね。すいません」
 聡美はあわてて付け足したが、高橋は
「いや、別にいいよ。隠すつもりもないし」
と、明るく答えた。そして、
「人それぞれいろいろあるよ」
と、言った。確かに人にはそれぞれいろいろな事情や考え方があるのだろうが、聡美の場合はあまりに特殊なのだろう。聡美はできればそれを隠しておきたいと思っている。同棲暦があるという事と男性をやめようとしている事は同レベルで語れるような物ではない。聡美には参考になるような事例は回りにはなかった。玲子以外の誰かに相談できる訳でもない。玲子でさえ聡美の内面については相談できないのだ。まだ聡美がそんな段階にないと思っていた。孤独なのだ。自分だけが周囲と違っているように思える。聡美は自分に違和感を感じて生きているのだ。聡美は「そうですね」と、言うと、後は黙々とチャーハンを食べた。

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