小説『ハーフ 【完結】』
作者:高岡みなみ(うつろぐ)

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 予備校のメールの設定は結局、高橋にやってもらった。それからは仕事のメールが10通以上つくようになり罠にはめられた気分だった。
 それでも、最初の土曜日に聡美は高橋借りたパソコンに予備校のメール設定をやってみた。そして高橋の予備校のアドレスにメールを出してみた。こうしておけば月曜日に高橋が予備校に着くなりこのメールを読むだろう。
   ◆
  はじめてのメールを出します。
  うまく出せているかちょっと不安です。
  いただいたパソコンを何とか活用しようと思ってます。
                   今井 聡美
   ◆
 高橋がこのメールを見たらどのような顔をするだろう。少しは喜んでくれるだろうか。または、例の貼り付いた笑顔のままだろうか。聡美は高橋の本心を少しでも見てみたいという妙な興味が湧いていた。
 インターネット上のホームページを追っていくのは思っていたより熱中してしまう事だった。聡美は別に必要でもないようなページを次々と追っていった。何枚も何枚もページを開いているとあっという間に二時間くらいが過ぎていった。聡美には新鮮な楽しみだった。聡美は(これはきりがないなあ)と思い、「えい」と掛け声をかけてブラウザを閉じた。パソコンに繋いだ電話線を元の電話に繋ぎ替えて机の上に置いたままの麦茶に手を伸ばした。パソコンその物はよく分からないし、何に使うのかもあまり思いつかないが、ネットサーフィンに夢中になる気持ちは理解できた。聡美は(ふうん、やってみるものね)と一人、悦に入っていた。

 午前中からパソコンを触り始めたがもうすでに昼を回っていた。一週間分の洗濯や掃除がそっくりそのままやり残してある。聡美は、以前玲子が「自立の一歩は家事からよ」と言っていたのを思い出した。確かにその通りだと思う。洗濯機を回している間に机の回りを片付け掃除機をかけた。二回目の洗濯の間には、キッチンを磨いた。三回目の洗濯の間には浴室を洗った。一通りの掃除と洗濯が済むと気分がさっぱりした。開け放した窓からが心地よい渇いた夏の風が流れてきた。そういえば今週は昼の風に吹かれた事がなかった。締め切った冷房の効いた部屋でちょこちょこと動き回ってばかりだった。夏の青色の空を見ていなかった。聡美はベランダから夏の空を見上げると、ゆるやかな風が聡美の髪をふわっと巻き上げ、瞬間目を覆った。髪を耳にかき上げながら(染めてみようかなあ)とぼんやりと思った。

 スーパーに買い出しに出たのはもう夕方になってしまった。込み合う時間帯は避けたかったが、パソコンを触っていた時間の分だけ後ろにずれてしまった。この週はろくな物を食べていない。冷凍パスタやレトルト食品が続いてしまった。アルバイトから帰ってくると、きちんとした夕食を作る気がしなかった。かと言って、一人で店にはいる気もせず、つい簡単な食事をしていた。食べ残してしまう事も多かった。玲子が聞いたらきっと「きちんと食べなきゃダメでしょ」と、呆れるだろう。聡美はこの週末である程度の分量を作り置きをして冷凍庫に入れておこうと思っていた。奈津美や玲子から差し入れられた物はダブっている物もあり、じゃがいもやタマネギはなどはあまるほどある。一方普段は常備しているはずのシーフードミックスなどはとっくに切れていた。聡美はメモしてきた買い物リストを見ながらかごにチキン、シリアル、シーフードミックス、ミルクと入れてみると、あっという間にかごはいっぱいになった。レジの行列に並んでいるあいだに料理雑誌もかごに入れた。夏野菜の特集を組んでいた。パソコン雑誌を読んでいるより料理雑誌の方がはるかに楽しい。何と言っても見た目がきれいだ。
 アパートに着き洗濯物を取り込むと七時近くになっていた。聡美は(まあ、きちんとしたお食事は明日からでいいや)と自分に妥協して、今日の夕食も冷凍パスタにしてしまった。テレビをつけっぱなしで買ったばかりの料理雑誌を横目で眺めながらパスタをフォークに巻き取っていたが、どうしても食欲が沸いてこない。(そういえば、お昼抜いたんだ)と、聡美は料理雑誌の特集記事を眺めながら思った。予備校の食堂のお昼は決しておいしいとはいえず、聡美の食欲を刺激しなかった。結局今週はほとんど食べていない事になる。前期試験にはいる前に玲子と一緒に買ったスカートも少しゆるくなった気もする。聡美は(やせちゃったかな)と、少し嫌な気持ちになった。聡美は決してダイエットをしようとは思っていなかった。奈津美や玲子からは「痩せたよ」と言われていたし、体力を落としたくはなかったからできればきちんと食事をしていたかった。
 シャワーを浴びた後ヘルスメーターに乗ってみると今週だけで一キロ減っていた。試験前からだと三キロ以上落ちている事になる。安直な食生活と精神的な疲労が原因である事は明らかだった。聡美は(ともかく食べないと)と、思った。食欲が沸かないから簡単な食事になってしまい、そしておいしくないから食欲が沸かない、という悪循環だ。

 聡美はベッドにもぐり込む前にパソコンを立ち上げた。メール送受信ボタンを押してみると高橋からの受信メールがあった。時間を見ると、聡美がメールを出してから十分ほど後に出しているのが分かった。聡美は(高橋さん今日出てるんだ)と、思うと、パソコンに向かっている高橋の姿が浮かんだ。
   ◆
  高橋です。
  初メールおめでとう。そしてメールをしてくれてありがとう。
  メールが送れたって事はメールの設定とかうまくいったって事だね。
  使ってもらえると、パソコンを貸した甲斐があったってもんです。
  これからもなにかあったら遠慮しないでメールしてくださいね。
  口で言いにくい事でもメールにすると言えちゃったりするもんだよ。
  まあ、あまり苦情は歓迎したくないけど……(笑)
  そうそう、それから、これからは「遅刻しまーす」とか「休みまーす」
  とかの連絡もメールでいいよ。
  僕は朝はあんな調子でバタバタしているから電話だと捕まらない事も多いからね。
  まあ、あまり最初からパソコンを使いこなそうなんて考えてると疲れちゃうよ。
  ほどほどにした方がいいね。
  ゲームとかブログとかで楽しむ事に使ってください。
  あ、それと来年は卒論だよね。そろそろ準備した方がいいかも……
  今こっちは、事務処理がたまっちゃって予備校に出てます。
  このメールを出した事で分かっているだろうけど。
   ◆
 高橋のメールはさすがに出しなれている感じがした。簡単明瞭、そして若干のジョーク、そして連絡が少し。メールは文字しかこちらには伝わってこないから高橋がどんな状態でこのメールを書いたかは想像するしかない。土曜日に出勤しているという事は、きっと忙しいのだろう。聡美はパソコン画面を食い入るように見つめて、忙しげにキーボードを打っている高橋を想像した。なぜか悠然と仕事をしている高橋は想像できない。
 聡美は返事を出すべきかどうか迷った。もうこんな時間ではさすがの高橋も帰ったに違いない。返事を書くとしてもどのように書けばいいのかよく分からない。当たり障りない事でも書いてとりあえず失礼にならない程度にするしかないかも知れない。
   ◆
  出勤していらっしゃるんですね。
  少し驚きました。
  私なんかあまり役に立ってないかも知れませんが雑用でしたらどんどん
  言いつけてください。頑張りますから。
           今井 聡美
   ◆
 聡美は少しためらってから送受信ボタンを押した。

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