小説『ハーフ 【完結】』
作者:高岡みなみ(うつろぐ)

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 聡美のアルバイトは午前九時から午後九時までが当たり前になっていた。日によっては十時を回る事もあり、あまりきちんとした夕食を食べる事もできなかった。そして予備校ではメールの話その物をしなかった物の、高橋からのメールは毎日のように届いた。そのメールは、仕事に関する事はほとんどなく雑談めいた物が多かった。聡美に返事を書く元気がない時は高橋からのメールを開きもしなかったが、高橋は返事が来ない事に対して何も言わなかった。返事があろうとなかろうとほぼ毎日メールが届いた。
 時には映画の話であったり最近読んだ本の話であったり世間話の延長だった。聡美は仕事中は雑談などしている暇もないから、メール上で雑談をしているようなものかなと思っていた。毎日遅くまで仕事をしている高橋にとって聡美は格好の雑談相手なのだろうか。聡美はメール上の高橋は仕事をしている時の高橋とは別人ではないかと感じる事があった。それほど印象が違っていた。文字だけの世界では高橋の営業スマイルはなく等身大の高橋がいた。
 高橋からのメールはまさに知識の宝庫だった。気負いなく書かれた高橋のメールの中には、いろいろなジャンルの事が書かれていた。そして聡美の疑問にも的確にそして簡潔に回答を寄せてくれた。高橋は予備校でメールを発信しているはずだから手元に資料などあるはずもなく、すべて頭に入っているのだろう。メールの発信時刻は夜十一時以降か朝早くのいずれかだった。おそらくメールを書いている時間も短いのだろう。あまり慣れていない事もあって聡美はメールを書く時は日によっては一時間ほどかかってしまう事もあった。そんな高橋からのメールであるが、時として聡美は、高橋は何か悲しみを抱えているのではないかと思えた。それは、高橋が高橋自身の事を書かないと同時に聡美自身の事についても何も訊いてこない事だった。もちろん、聡美の事を訊かれても聡美としては非常に困る事になるのだから好都合なのだが。高橋の抱えている悲しみなど聡美の勘違いかも知れないと、聡美自身も思ってみる事もあったが、メールという形であれ誰かと会話を交わしている以上、これまでの生い立ちであるとか、幼い頃のエピソードといった事は会話に上るだろう。聡美は、自分自身がそうであるように高橋も何かの理由で自分の事を話したくないのだろうと想像していた。
 聡美は、もし高橋が聡美自身の事を訊いてきたらどう答えるかが気にかかっていた。聡美には男性であった時の思い出しかなく聡美としての過去は持ち合わせていない。これは高橋に対してだけの問題ではなかった。これから先、誰かと話をする時は女性としての思い出を準備しておかなくては話にならない。初恋はいつ、どんな男の子に抱いたのか。高校の文化祭で何をやったのか。中学校の修学旅行はどんな感じだったか。聡美が聡美であるためにはどのような過去が必要になるのだろう。自分の過去を今の自分が勝手に想像するというのもおかしな話だが、これは必要な事に思えた。特に急ぐ事もないだろうが、はめにやっておいた方が良さそうだ。

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