小説『ハーフ 【完結】』
作者:高岡みなみ(うつろぐ)

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 留守番電話に奈津美からの伝言が入っていたのは、聡美が疲れ切った帰ってきた日だった。奈津美の携帯に電話を入れると、十回ほどコールした後奈津美が出た。
「あっ、お兄ちゃん?」
と、言う奈津美の声は妙に懐かしかった。
「どうしているの?」
「もうバイトがきつくて、まいっちゃうわよ。帰ってくるの毎日十時過ぎだもん」
「へえ、そうなんだ。何でそんなきついバイト始めちゃったの」
「最初は五時で終わるって聞いてたんだけど、実際始めてみると、そうでもなかったのよ。世の中、甘くないって事ね」
 聡美はクレンジングコットンで顔を落としながら言った。
「予備校だよね」
「そうよ。夏期講習のお手伝い。現役と浪人が入り交じってもう大変ね。私の時ってあんなに勉強しなかったけど、やる人ってすごいパワーね。田舎から夏期講習のためにだけ東京に出てきてるんだよ。しかもウィークリーマンションで。ね、すごいでしょ」
「私の時はクラスに何人かいたわよ」
「えっ、そうなの。じゃあ私の時もそうだったのかなあ」
「たぶんいたんじゃないかな。そういう子ってあんまり言わないもんね」
「そこまでして大学に入りたいのかなあ」
「お兄ちゃんは勉強しなかったもんね」
「これでも私なりには勉強したつもりでいるのよ。とはいう物の、そんなに真剣じゃなかったのは認めるわ」
「へえ、素直ね」
「そりゃあそうよ。目の前であんな集団見せつけられたら、私は受験勉強しましたなんて言えないわよ」
「ところでさあ、昨日ねえ、玲子さんと会ったよ」
 聡美は(これが本論ね)と、思った。
「おととい同窓会だったんだってね」
「ああ、そう言えばそうね。何か言ってたの?」
「うん。ちょっとね」
 聡美は嫌な感じがした。同窓会があり、奈津美が玲子から何か聞いたとすればそれは私の事しか考えられない。しかし、玲子は同窓会に出ないと言っていたはずだ。
「玲子さんが言うには、お兄ちゃんの事で盛り上がったらしいわよ」
 聡美は(やっぱり)と、思いながら訊いた。
「でも玲子は出てないでしょ」
「うん、そう、出てないんだって。でも昨日、同窓会に出た子から玲子さんに電話があっていろいろ訊かれたらしいわよ」
 聡美はそれが誰かは考えないようにした。こういう噂話の出所がどこであっても一度広まり出すと歯止めは利かない。それより玲子が同窓会に出なかった事は正解だった。玲子が噂の中心に一番近い所にいる事は皆が知っていた。
「それで玲子は何て言ってたの」
「うん、駅前でばったり会ったんだけど、玲子さんがお父さんと一緒であまり詳しく話せなかったのよ。玲子さんが私を見つけて、ちょこちょこっと『例の話、同窓会でみんな知ってるらしいのよ。やんなっちゃう』って言って、それだけ。例の話っていったらお兄ちゃんの事しかないでしょ」
 聡美は三枚目のコットンをゴミ箱に投げ入れると、コードレスの受話器を持ったままキッチンに向かった。
「そうか、詳しく聞けなかったんだ。玲子はどんな様子だったの」
 聡美は冷蔵庫から缶ビールを出し、プルトップを引いた。
「本当に困ってるみたいね。玲子さんのお父さんとかってお兄ちゃんの事を知ってるでしょ。噂がどこまで広がっているか心配してるんじゃないかな。私だって同じだもの」
「そうだよね。そう言えばお母さんから電話ないみたいだけど私の事を知ってるのかしら。なんか言ってる?」
「今のところ何も……。それがかえって怖いけど。まさか私から言い出せないでしょ」
「そりゃそうだわね」
「で、お兄ちゃんはどう応えるか決めたの?」
「ううん。決まんない」
「電話があったらどうするの?」
「電話に出ない事にしたの。留守電にしておいて相手が名乗るまで出ない」
「で、その後は?」
 聡美には「その後」なんてなかった。
「考えてない」
「ねえ、お兄ちゃん。私、知らないよ。本当に。お兄ちゃんの味方しないからね」
 奈津美はあきれた声で言った。聡美は少しだけ声を荒げて
「いつまでもぐずぐずとしてるのは良くないのは分かってるの。でも、でもよ、やっぱり言いづらい事でしょ。私だってもうみんなに宣言しちゃおうかなって思うわよ。でも誰にどう宣言すればいいのか分かんないのよ。玲子みたいに理解してくれる人なんてきっといないわ」
と、言ってしまった。そして、
「ごめん、奈津美に当たっても仕方ないよね。自分が悪いのに」
と、謝った。
「謝らなくてもいいよ、お兄ちゃん。でもそろそろ考えておいてね」

 電話を切ると、聡美はなぜか腹立たしく思えてきた。なぜ同窓会で私の事など話題になるのだろう。そんな事はどうでもいいではないか。できれば放っておいて欲しい。春先の聡美は誰かの目が気になって仕方がなかったが、予備校という全く新しい環境にいると、過去の自分に縛られる事なく過ごす事ができた。誰にも言い訳しないで自分のあるべき姿でいる事がいかに自然で心が楽なのがはっきり分かった。今となってみれば男性であった過去が疎ましく、女性の過去に憧れるようになっていた。そして(玲子はどう説明したのだろう)と、玲子を思いやった。(困った事になっていなければいいのだけれど……)と思い、電話しようかと思ったが十一時を過ぎていた。携帯に電話してもいいのだが聡美自身すでにかなり疲れていた。聡美は(今日はよそう)と思い直し、冷静な時に連絡をしてみる事にした。
 聡美はぬるめのシャワーを浴びたが疲れまでは洗い流す事はできなかった。パソコンを立ち上げて着信メールを確認すると、今夜も高橋からのメールが届いていた。いかにおいしい紅茶を入れるか挑戦しているらしい。茶葉の選定から蒸らし方まで事細かに書かれている。そんなメールを読んでいると、また腹立たしさがよみがえってきた。
   ◆
  今、少し考えている事があります。
  人の外見って大切な物でしょうか。
  そもそも人の外見って何なんでしょうか。
  年齢や学歴や性別って外見に入るんでしょうか。
                        今井 聡美
   ◆
 聡美のメールは、腹立ち紛れに意味不明な物になってしまったが、そのまま送信した。高橋がどういう反応をするのか少し興味があった。

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