小説『ハーフ 【完結】』
作者:高岡みなみ(うつろぐ)

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 翌日の高橋はメールについては一言も言わずに黙々と仕事をこなし、聡美に作業を割り当てた。聡美は一日の大半を印刷機の前で過ごしたので、高橋がどういう表情を見る事はできなかったが、きっと高橋は普段通りに過ごしたのだろう。
 聡美は今日こそ玲子に電話をかけようと思ったが、帰りが十一時近くになったしまった。電話は次の休みまでお預けになりそうだ。いつものようにシャワーを浴びてから着信メールを読んだ。
   ◆
  高橋です。
  今回は哲学的な内容ですね。
  考えている事というのは、何か大切な事のようですね。
  私が思うには、外見に対する物として内面がありますね。内面というと自分
  だけの世界だから、そういう意味だと、容姿はもちろん年齢も学歴も性別も外
  見でしょう。もっと拡大すると、内面からにじみ出てくるような物(態度とか
  仕草とか)も外見でしょうね。そうやって考えていくと同じ外見でも、内面に
  近い外見の方がより重要な気がします。つまり容姿や年齢や性別は内面とは関
  係ないからあまり大切じゃなくて、態度とかはとても大切、と、思います。
  どうでしょう。答えになってますか?
   ◆
 いかにも高橋らしい返事だった。聡美にとって本当に知りたい事が書かれている訳ではないが、それを見透かしたような返事だった。もっとも聡美の訊き方が違っている。聡美は(私のしようとしている事は正しい道なのか)を外見という言葉に託したのだが、それは聡美の身勝手な事だ。
 内面が持とうとしている性と肉体がすでに獲得している性とどちらが優先するのだろう。聡美が知りたい事はまさにそれにつきる。別に哲学を論じているわけではないのだ。きわめて現実的な事柄なのだ。高橋の論法を使うと、内面の性が大切という事になる。しかし外見の性とのギャップに苦しんでいる現実をどう理解すればいいのだろうか。

 高橋の言う「哲学的な」メールの後、聡美はたびたび高橋自身の事をメールで訊いてみた。もちろん予備校のメールアドレスではなく、それぞれの個人の目^ルアドレスを使ってである。高橋は答えをはぐらかすかと思ったが、意外にも実に丹念に答えてくれた。甲府の出身で大学はなんと美大を出ていた。卒業の後、アルバイトで食いつなぎながらも展覧会に何度か入賞した事もあるらしい。しかし、数年してから描くのをやめてしまった。聡美が「なぜやめてしまったのか」と訊くと、「絵を職業とできる人はそう多くはない」という返事が返ってきた。聡美の「趣味でも描けばいいのに」という問いには「私の絵は趣味で描けるほどいい加減な物ではない」と、きっぱりとした返事が返ってきた。高橋は同棲を止めた理由ははっきりとは書かなかったが、どうやら、絵を描いていた当時に一緒に住み始め描くのをやめてから別れたらしい。高橋にすれば生活していくために絵をやめたのに、恋人から見ればそれが耐えられなかったのかも知れない。その理由は想像するしかないが、聡美は、きっと恋人は高橋が自分の犠牲になっている事に耐えられなかったのだろうと思った。または高橋が仕事に忙殺されている事が原因なのだろうか。高橋は別れてからも全く絵を描いていないようであるが、将来も描く事はないのだろうか。高橋が自分のやりたい事をしないで、ひたすら仕事をしているのを聡美は不思議で仕方がなかった。聡美が現実と理想との間のギャップについて書いた時、高橋はそのギャップがある事をすんなり認めた。高橋にとって本来やりたい事はやっぱり絵で自立する事だと言った。現実の世界で生きていくという事は、自分の中でいかにそのギャップとうまく折り合いをつけるかだとも言った。高橋は、年に何回かはすべてを捨てて絵の世界に戻りたくなる、その葛藤がある、とも言っていた。聡美は本当にそう思うならやってみればいいと思う。高橋は「自分のしている事とやりたい事の間にどれくらいの差があってその差をどれくらい我慢できるかが問題で、この社会で生きていくという事は自分の妥協できる点を見つけて、その点の上につま先立ちしているようなもんだ。しっかり立ってないとすぐにふらふらとして倒されてしまう。」と書いてきた。
 聡美には高橋の持っているギャップは普通の事のように思えた。ギャップの大きさが問題ではなくギャップの質が違うのだと思った。聡美のギャップは他の誰のものとも違い、参考になるような事例は自分の回りにはなかった。聡美が、自分自身に嘘を突き通せない事から来るギャップもあります、というメールを書いた時、高橋は、聡美が本当は男性であり、そこにはいいようのない苦しみがあるんだろうと返事を書いてきた。高橋が言うにはアルバイトを採用する時の面談で本名を訊いた時から沢連しかないと思っていたという事だった。高橋は聡美の本当の姿を知っていながら、聡美を女性として接していたのだ。聡美は、自分の身の回りにあるいろいろな障害や自分自身が矛盾を抱えている事の困難さを強調した。しかし、高橋に言わせれば、障害はこれからもっと多くなっていくだろうし、自分が抱える困難さは自分で克服する以外逃れる事はできないと言った。また、戸籍上の性別は自分自身の中ではいずれ解決するだろうが、世間はその事を問題にし続けるだろう、とも言った。聡美には(そういうこともあるかも知れない)とは感じたが、具体的には思いつかなかった。今は自分の中での葛藤で手いっぱいだが、学生という肩書きが取れた時は、世間との接触が大きな問題になるだろうという事は容易に想像できた。しかし、問題はそれだけではないのかも知れない。聡美は大した理由もなく入った法学部であったが、最近になってやっと法曹関係の仕事をしてみたいと思うようになっていた。そのためには今できるだけの勉強をしておきたかった。高橋に言わせれば、世間では学歴など何の役にも立たないが、学歴がないと何もできないのは確かで、高校や大学で学ぶ事が重要なのではなく卒業証書が重要なのだ、とメールに書いてきた。それは当たってるかも知れないと聡美は思った。就職活動に奔走している四年生を見ていると、個人が就職活動しているのではなく、卒業見込みという肩書きと成績表が就職活動をしているように見えた。しかしその卒業証書は今井聡のものでしかないのだ。

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