小説『ハーフ 【完結】』
作者:高岡みなみ(うつろぐ)

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 本来は八月十三日から十五日は休みであるが、出勤して欲しいと言われていた。休み前に行われた模試の集計やら結果の配布準備を学生が休みの間にやってしまわなくてはいけない。聡美はできる事なら休みたかったが、今週の休みはあきらめるしかない。とても「ノー」と言える雰囲気ではない。この休みの間に玲子と連絡を取っておきたかったがそれもかないそうになかった。昼休みに一度、玲子の携帯に電話を入れてみたが通じなかった。かれこれ二週間以上玲子とは連絡を取っていなかった、これはつきあい始めて初めての事だった。一度母親から「お盆くらいはかえっておいで」と言う留守電が入っていたが、奈津美に「バイトが休めないと伝えておいて」と、言っておいた。

「聡美さん、お疲れさま。大変だったね」
 殺人的な仕事をこなしようやく一段落着いたのは十五日の十時過ぎだった。冷房の効いた教員室の中にいてもじっとりと汗をかいていた。
「はい、少し疲れました」
 聡美は正直な気持ちを言った。しかし、疲れはしたが(こんな私でも仕事の役に立ったに違いない)という満足感を感じていた。中途半端な忙しさではなく、それこそ目の回るような三日間だった。しかし、高橋が言うには受験前はこれが二ヶ月ほど続くらしい。
「ご褒美に、明日は休みにしてあげるよ」
「ええっ、本当ですか。ああ、嬉しい」
 聡美は本当に嬉しかった。
「高橋さんは休まないんですか?」
「ああ、僕も休みたいけどちょっと休めそうにないね」
「まだ仕事あるんですか。もしなんなら私もやりますけど」
 聡美は疲れてはいたが、仕事を終わらせたという満足感からそう言った。
「ありがと。気持ちだけでいいよ。明日からはルーチンワークに戻るだけだよ」
「じゃあプリント作りとかがあるんじゃないですか。やりますよ」
 高橋は笑いながら
「本当に責任感が強いなあ。じゃあ、午後からおいで。たまには朝寝もいいよ」
と、言った。

 翌朝、聡美はいつも通り七時半頃目が覚めた。のんびりと寝ていようと思ったが、なぜか目が覚めてしまった。煙草を一本灰にしてからもう一度眠ろうとしたが、やけに目が冴えて眠れなかった。しばらくはベッドの中でもぞもぞとしていたが、八時前には起きだした。
 サラダとフレンチトーストのしっかりとした朝食を楽しんでから、たまっていた洗濯や掃除を済ませるとすぐに十時近くになった。外はもう真夏の光であふれている。聡美は白地のプリントのTシャツにグレーのカートをはいて外へ出た。
 渋谷の駅前の銀行でお金をおろしパルコを見て回った。あまり多くの時間はないが渋谷を十二時半頃出れば充分間に合うというのは気分的に楽だ。それに平日の午前中は空いている。聡美は店員に声をかけられながら秋物を物色していた。ブラウスとスカートを一枚ずつ買い、喫茶室でアイスコーヒーとオムライスのランチを食べてから文庫を開いた。こんな時間にこんな場所で本を読むのも久しぶりだ。のんびりとするのがこんなにありがたい事は初めてだった。帰りが十時を回る日が続くようになってからは、ベッドの中で三十分ほどしか本を読めなかった。明るい部屋の中でコーヒーを前にして座って本を読めるのが嬉しかった。
 聡美は化粧室で口紅を引き直してから渋谷駅に向かった。

 午後からの仕事はいつものようにプリント作りとワープロ打ちだった。アルバイトを始めた当時は勤まるかどうか不安でいっぱいだったが、いまではもうすっかり慣れた。それに昨日までの忙しさを思えば、普段の仕事など大した事ではないように思えるようになっていた。聡美は(もう大丈夫、やっていける)と思った。
 高橋は「今日は定時に終わろう」と、言ってくれた。高橋も今日は早く帰ると言う。聡美の世間と少しずれたお盆休みは半日だった。

 聡美が予備校を出てしばらくすると、交差点の手前で声をかけられた。
「あの、臨時職員の人ですよね」
 聡美が振り返ると、どこか幼さを残した男子学生が聡美の真後ろに立っていた。五メートルほど離れて数人の学生が集まって、にやにやしながらこちらの様子をうかがっていた。
 聡美は
「ええ、そうですけど。学生さん?」
と、訊いた。その学生は
「……ええ、ちょっと……、お願いがあるんですけど……」
とためらいがちに言うと、後ろに控えている数人の学生たちに振り返った。後ろの学生たちは、手で(早く言え)というように催促していた。その学生は、私をじっと見ると、意を決したように
「あの……もし良かったら飲みに行きませんか」
と、言った。聡美は、
「えっ」
と、少し笑いながら訊いた。
「ええ……あの……仲間の中に、ぜひあなたとご一緒したいって言う奴がいるんです」
「それで」
と、聡美は先を促した。
「それでジャンケンで負けて俺が訊く事になったんです。で、一緒に行ってくれるかどうか賭けてて……」
 聡美は、(やっぱり私って女性って見えるのかな)と、思い、あまり嫌な思いを感じなかった。ナンパされたのだと思うとちょっと得意になった。少なくとも外見上は女性になりきっているようである。
「賭はどんな感じなの?」
「行ってくれるが二人に、ダメが三人」
「あなたはどっちに賭けた?」
「ダメじゃないかって方ですけど…」
「それなら、ダメにしとくわ。あなたが賭に勝つでしょ。じゃあ、余計な事考えてないで、勉強するのよ」
 聡美はそう言うと、その学生を残して、横断歩道をわたった。わたりきったところで振り返ると、その学生のうち一人がガッツポーズをしていた。
 聡美は、受験生にとってはこんなくらいしか楽しみを見つけられないほど、受験という大きな壁に向かっているんだと、改めてそのひたむきさを感じた。しかし、そのひたむきさは、実にもろく、実体のない物に向けられていると思った。

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