小説『ハーフ 【完結】』
作者:高岡みなみ(うつろぐ)

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 翌朝、聡美が五号館に入ろうとすると
「おはよう」
と、言う玲子の声がした。
「あれ、早いじゃん。続くわねぇ」
「聡美が来るだろうなと、思うと、早起きできちゃうのよね」
 聡美は少し複雑な気持ちで玲子の言葉を聞いた。聡美は(玲子は私の中に聡を探しているのではないか)と、思った。相変わらず屈託のない玲子の言葉は時々聡美を惑わせた。聡美のとんでもないわがままを聞いてくれる玲子の本心がよく分からなかった。
 文化人類学の階段教室はとても空いていた。いつも通りに一番上に腰を下ろし教授を待った。どの授業も新しい学年が始まった頃は、出席する学生数は多いが、その数は週を重ねる毎に確実に減ってくる。文化人類学のように一時限目でしかも出欠を取らない授業は、出席する学生数は激減する。学生数を数えてみると、ちょうど二十人だった。
 物静かな話し方をする初老の教授は、出席している学生の一人一人を確認するように、ゆっくりと講義を進めていた。
 玲子も聡美と昨年の講義のノートのコピーをすでに入手していて、特に出席をする必要もないのだが、聡美は毎週、必ずと言ってよいほど出席していた。いつか玲子に「何でこんな授業に出てるの」と訊かれた時、聡美は「この教授の話し方の間がいいのよね」と、答えた。そんな授業に玲子が出席している。聡美は最近の玲子の様子を少なからず不審に思った。
 講義が終わる頃には、外の日差しはすっかり夏めいていていた。
 聡美は二十分の休憩時間を利用して、第二学食でソフトクリームを食べに玲子を誘った。五号館の階段教室の下の半地下になっている第二学食に降りると、バターの甘い匂いが漂っていた。奥まった所がスナックコーナーになっていて、クッキー、パンケーキ、ソフトクリームと言った甘い物の好きな人にはたまらない場所になっている。もちろん聡美も目がない。
 二人でミックスソフトクリームを買い、手近なテーブルに陣取った。
「ねえ、玲子。なんだか最近、健全な生活してるみたいね」
玲子は「むふふふ」とくぐもった声で低く笑うと
「えらいでしょ」
と、胸を張った。
「何かあったの」
「聡美って、いきなり核心ついてくるのね」
 玲子は、天井を見上げながら言った。
「別に何もないんだけど、何となく落ちつかないんだ。うまく言えないけど、何かが引っかかっているような感じがするのよね」
「それって最近の事なの」
「ううん、どうかなあ。本当に自分でもよく分かってないんだよね」
「ふうん」
と、聡美は返事にならない返事をした。
 聡美には玲子が本当に言いたい事が何なのか分かるような気がした。言葉にできないような部分ですれ違ってしまって、それが苦痛なのだろう。聡美は分かっているのに分かっていない振りをしているようでとても嫌な気がした。
 玲子はそんな聡美の心を見透かすように
「なんか、私も頑張ろうかなって気持ちになっているんだよね。ほら、私って大学に入ってからのんびりしてたじゃない。だから、もう少しくらいは学生らしく勉強しようかなって所ね。うん。多分そう。一人で部屋でぼうっとしている時間が長いなって思って、それが自分で嫌なんだよね」
と、玲子が言った時、不意に入口付近で大きな声がした。ふと見ると、数人の四年生らしい学生が紺のスーツに薄いブリーフケースを手に学食に入ってくるのが見えた。大学の構内で紺色のビジネススーツを見ると何とも言えず、違和感を感じる。(会社に就職するために苦しい受験勉強をして大学に入った人たち)というのが彼らに対する聡美の印象だった、いつも、六月頃から十月くらいまでは、あちらこちらに、濃紺のグループが疲れた顔でたむろしていた。
 聡美は、最近の求人の傾向として、「個性と創造性が重視される」と、情報誌に書いてあったのを思い出したが、彼らの、どこにも個性や創造性を見いだす事はできなかった。
「ほら、聡美。私たちもあんなふうに頑張らなきゃいけないんだね。後たった一年だよ」
「そうだね」
「私も頑張らなきゃ」
「でも、玲子は自分の家の会社に入るんでしょ」
 玲子の父親の経営する会社は、決して大きくはないが地元では信用のある機械部品の商社で、聡美は高校の頃に、何回か遊びに行った事もあった。最後に玲子の両親にあったのは大学一年の夏休みだった。両親とも二人の関係を知っていたし、二人を信頼しているようだった。その時、父親が(事務員を入れたいが、もう数年このまま頑張ってみよう)と、言っていたのを、聡美はよく覚えている。玲子の両親は一人っ子の玲子を家にとどめておこうという気はないと、言っていたが、言葉の端々に自分の会社で働いてくれれば安心だという雰囲気を漂わせていた。
「そうね。どうしようかな。あんな会社なんてこれから先いつまでもつのか分からないし」
 玲子は「聡美はどうするの」とは訊ねない。聡美には、これから自分がどうするのかなど、まだ考えも及ばない。玲子もきっと「聡美はこれからどうするの」と、訊ねたいのだろう。訊ねたところで何か返事が返ってくる物ではない事は二人とも分かっている。
 聡美がこれからの事に目処が立たない事が、玲子の将来にも影響を与えているのだろうか。もし、そうだとしても今の聡美には何もできない。
「就職活動しなくていいなら、ラッキーじゃん」
「まあね、それでもいいんだけど、何だか安易な気もするのよ」
「それも分かるけど、そういうのって結構贅沢だよ。あそこの四年生もたいへんそうじゃない」
 聡美は学食の入り口でかたまっているスーツを着た数人の四年生に視線を向けた。聡美には、あの四年生たちにとって、就職するという事と何かの試験に合格する事と同レベルに感じているのではないかと感じがした。どの企業から内定を貰った事を友人と比べあっている彼らがどこか滑稽に感じた。だいたいこの大学に入学した事も誰かと比較し、自分のレベルに似合っていただけなのだ。入学して何ヶ月かは同じクラスの友人から「本当ならもう一つ上の大学に行けたはずなのに」と言い訳がましい言葉を何回も聞いた。彼らはこの四年間で何ら変わる事なく、就職してからの数ヶ月を「本当ならもっと大手の企業に入れたはずなのに」と自分に言い訳をしながら過ごすのだろうか。
「あの人たちって、本当に大変なのかなあ」
と、玲子は口にした。聡美は
「そうね」
と、だけ答えた。
 玲子は
「じゃ、そろそろ行こうか」
と、言い席を立った。もうすぐ二時限目の授業が始まる。

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