小説『ピラミッド』
作者:一憂()

しおりをはさむ/はずす ここまでで読み終える << 前のページへ 次のページへ >>

この世の中に夫に精神病にされた妻というものが一体どれだけ存在するだろうか。

 一度ぜひ街頭でアンケートを採ってみたいものだ。

「あなたはご主人に精神病にされた事がありますか?」

いきなりこんな質問をされたらみんなどんな顔をするだろう。

『気違い!』『頭おかしいんじゃない?!』『病院へ行け!』と、この程度の罵り合いを経験する夫婦は案外
多いかもしれない。

でも妻を精神病患者に仕立て上げ、社会的に抹殺しようと試みる夫が存在するのは、活字やスクリーンの中だ
けだろう。

いやいや、ここにいる。私の夫だ。有ろう事か他の誰でもない、私の夫なのだ。

といっても病院に押し込められた訳ではない。

実際私は精神疾患を持ち合わせてはいないのだから、いくら何でも夫もそこ迄は出来ずにいる。

元々私はそれ程おとなしい性格ではない。

勝気で喜怒哀楽は人並み以上、腹が立つと怒鳴りまくる。可笑しければ腹を抱え大口開けて笑う。

その声は、3件屋根を飛び越えて幅7m程もある道路をさえ面倒臭がらずに渡り、その向こうの森を3m程進んだ所でやっと陰を潜める。

夫はそんな私の性癖をうまい具合に利用した。周囲の人たちに『あの奥さんなら・・・』と言わしめたのだ。

長い間私から隠され続けてきたその事実が明るみに出た時、私の夫への感情はドラスティックに変化した。

そして私の中で、離婚へのカウントダウンが始まった。

夫は、私がこの事実を既に掌握していることを未だ知らずにいる。


妻が精神病を患っている、という話を夫から聞いたと、共通の友人から告げられたのはかれこれ2年前のことである。

あの時私はどんな反応を示しただろうか・・・。記憶の糸を手繰ってみる。

あまりのショックに顔面蒼白、口も聞けなくなりうつ状態に陥っただろうか。

いやいや、確か・・・。あまりにも私のことを気遣う友人の神妙な様子が、何故か可笑しかった事も手伝って、
げらげらと笑い転げたのだった。

楽天的でポジティブな私の性格を加味しても、その反応は友人の予想を遥かに超えていたようだ。

あっけにとられた友人の表情がまた可笑しくて、私は益々笑いの壷に嵌ってしまい、暫くは収まらなかった。

友人はそんな私を見て安心したのか、更に言葉を続けた。

「それから、薬が見つかったって・・・病院の・・・」

『ガーン!!』後頭部を殴られたような衝撃というものを、生まれて始めて経験した。

私はこれまでそちら関係の病院にお世話になったことは一度もない。従って薬が見つかる筈もない。

さすがに今度は笑えなかった。絶句・・・・・・・した。


買い物を終えて駐車場のマイカー目指し、そんな2年も前のことに思いを馳せながら歩いていると、

ふと私の前を横切る白髪交じりの男性が目に入った。

男性は中身のいっぱい詰まったスーパー袋を両手に提げている。

その後ろを二,三歩遅れて女性が続く。きっと夫婦だろう。

恋人同士の頃は行き交うカップルがとても気になり、そちらによく視線を向けた。

子供が幼い頃は我が子と同年代の子供を、微笑みながら見守った。

最近は・・・熟年夫婦がやたら目に付くようになった。

夫らしきその男性が振り返り、妻らしい女性に話しかける。

仲睦まじい様子が遠目にもはっきりと窺える。

どうしたらあの歳になる迄あんなふうに仲良い儘でいられるのだろう。

身体的に弱い妻を気遣い重い荷物を持つ夫、感謝と敬意を込めた視線を時折夫の背中に注ぐ妻。

そんなふうに私の目に映る。

微笑ましい理想的な夫婦の像がそこにはあった。

私たち夫婦もそんな理想像に辿り着く道を、今頃はひた走っている筈だった。

なぜこんなことになってしまったのだろう・・・・・・なぜ・・・・・・?!。なんて、感傷に浸っている場合ではない。

スーパーの駐車場を出て暫く車を走らせた所で、アイスクリームを買い忘れたことに気がついた。

夫が風呂上りに食べるボディーボーデンだ。無いと微妙に機嫌が悪い。とはいえ我が家はもうすぐ目の前。

近くのコンビニに寄ってみることにした。有名メーカーだ、売っているかもしれない。

しかし、考えが甘かった。無い。どうしたら良いものかと考えあぐねていると、ハーゲンキッズが目に止まる。

これからスーパーに引き返す気には到底なれない。こちらも高級だ、味に遜色は無いはず。

今日はこれで我慢してもらおう。


夫が風呂から上がってバスタオルを腰に巻き、いつものようにソファーにでーんと座る。

テーブルの上にはハーゲンキッズが置かれている。

夫がそれをを手に取り、斜め15度傾けチラッと一瞥する。が、何も言わずに蓋を開けスプーンで掬って口いっぱいに頬張る。

スプーンに乗せられ何度も主人の口に運ばれるアイスクリームとバスタオルの上からはみ出た脂肪の塊を、私
は交互に見つめる。冷めきった目で。

きっと内臓にもいっぱいため込んでいるのだろう。

結婚当初は、毎日繰り返されるこんな光景が当たり前になっていて、微笑ましくさえ思った程だ。

あばたもえくぼとよく言うが、恋というオブラートに包まれると相手に対するマイナーな感情は全て些細な事と、脳内で勝手に処理されてしまう。

結婚を間近に控えて、相手の欠点に少しでも不安や躊躇いを感じる人がいたなら、もう一度見つめ直した方が良いかもしれない。

オブラートはいずれ溶け、中から苦い薬が現れるのだ。

食べ終わると夫が言う。

「鏡・・・」

「ん・・・はい」と手鏡を渡す。夫は鏡を覗き込む。

これ以上は無理というくらいに上に引ん剥いた眼球を、右に左にキョロキョロ動かしながら何やら検証を始めた。

じっくりゆっくり時間をかけて、あちらこちらと何度も髪を掻き分けながら、夫が訊いた。

「薄くなったかあ?」

「ん〜、どれどれ?」

私は夫の斜め後ろに立ち、真剣な目になって上から見下ろす。

鏡の中から夫の目が私を覗き込んでいる。

不安がひしひしと伝わってくる。きっと判決が下されるのを待つ犯罪者の心境だろう。無罪放免か、はたまた・・・。

何度か頭頂部の髪を指で摘まみ上げると、右手の人差し指と親指に髪の毛が一本引っかかって残った。

これ以上この頭にしがみついているのは耐え切れない、と言わんばかりにその手を離したのだ。

私ももう手を離したい。でも出来ない。夫の頭から離れることに成功したその一本の髪の毛を羨望の眼で見つめる。

「薄くなってないよぉ。気のせい気のせい。」

安心させるべく、笑顔を取り繕う。

まるで仮面夫婦。

その仮面の裏の感情を、その一部でも夫が垣間見ることができたら、夫は頭上に核弾頭が落ちて来ると言わん
ばかりに、地球の果て目掛けて一目散に逃げ出すだろう。(逆もまた然り、に違いない。)

大気圏外から地球を眺める前の、まだ地球が平たいと信じられていた古き良き時代なら、

迷わず夫目掛けてその核弾頭を投げていただろう。でも今はその時ではない。地球は丸いのだ。

いっそ潔くスキンヘッドにすればいいのにと思う。スキンヘッドの男性ってなかなかセクシーで魅力的だ。私は好きだ。が、口が裂けてもそんな事は言わない。

ささやかながらではあっても、溜飲を下げる大切な手段の一つを、自ら手放すようなことはしたくない。


なぜ夫が私を精神病に仕立て上げたのか、理由は今もってわからないが、驚愕の陰謀の一つ一つが、様々な形で明らかになっていった。

それと比例して、事実を知ったあの時に芽生えた夫への感情は、日増しに大きく膨れ上がっていった。

しかし・・・怨恨から人を殺すなんて愚かな事だと私は思う。

およそこの世に完全犯罪など存在しない。  

現場に髪の毛1本落としただけ、うっかりくしゃみ一つ飛ばしただけで、DNA鑑定というものを使って犯人と特定されてしまう。

日本の殺人事件検挙率は90%以上にも上るそうだ。10人に9人は確実に捕まってしまうのだ。

IQがとてつもなく凡人の私は、間違いなくその9人の中に否応なしに入れられてしまうだろう。

何年間も刑務所に入れられて暮らすか、最悪死刑だ。 

そんな憎むべき人間の為に、自分の人生を棒に振るなんて勿体無さ過ぎる。

これから怨恨故に人を殺そう、もしくは自殺をしようと考えている人がいたら、どうかそう思って考え直してほしい。

夫よ、法治国家日本に感謝せよ。

いやいや、もしかしたら私の方こそ感謝しなければならない立場にいるのかもしれない。

何といっても私は夫に精神病患者に仕立て上げられているのだから。


To be continued.

-1-
Copyright ©一憂 All Rights Reserved 
<< 前のページへ 次のページへ >> ここまでで読み終える