小説『夢幻奇譚〜上杉軍神録〜』
作者:maruhoge()

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仕事を始めて何れくらいの時間が経った事か。




漸く仕事が終わり、後は此れを持って行くだけなのだが………此の時間に持って行くと受け取ってもらえない可能性が有る。


なので、明日の朝に持って行くとしよう。そう考えて、ふと虎千代様の方に目を向けてみると、虎千代様は熱心に一冊の本を読んでいた。



「何を読んでいらっしゃるのですか」


「源氏物語だ。此処に置いてあったのでな、少々見させてもらった」



此れだ、と本を見せてくる虎千代様。確かに表紙には『源氏物語』の文字が書かれている。




………そういえば何時だったか、懇意にしている商人から貰い受けた様な記憶が有る。




「しかし意外だな。聖正殿はこういったものは読まないと思っていたが………」


「教養を身に付けるには良いと言われたので貰ったのです」




源氏物語は光源氏を題材にした恋物語だ。

しかし、物語の作り方から心理描写に至るまで、かなりの完成度で書かれている。

中には何百首という和歌が組み込まれていて、和歌を教養とする此の時代、学ぶものが有る。



そう思って読み進めた記憶は有るのだが………どうも俺には和歌の才は無いらしい。全く解らん。

文章の作り方や巧みな心理描写には学ぶものが有ったが、如何せん恋物語は男の俺には全くと言っても良いほど理解し難い内容だった。


率直に言えば詰まらなかった。



だが、別に出来の悪い作品では無いのだ。ただ、物語の内容的には俺が理解出来なかっただけであって、其れ以外は学ぶものが多かった。


肌に合わなかったとでも言えば良いのか………




そんなこんなで読むのを止めてしまった書物だ。



「宜しければ差し上げますよ」


「良いのか」


「はい、私には理解出来ないものでしたので、最早持っている意味は有りませんので、虎千代様が御気に召したのであれば持って行って下さい」


「……ならば有り難く貰っておこう」



そう言って、嬉しそうに本を見つめている虎千代様。其処まで気に入って貰えれば、あの本も満足であろう。




「……実を言うとな………前々から欲しかったのだ、源氏物語。城下には今まで置いてなかったからどうやって入手しようかと思っていたのだがな……驚いた事に此処に置いてあって、ついつい手に取ってしまった」




そんなに読みたかったものだったとは………


しかし、欲しかったのなら為景様に一言言えば、何が何でも取り寄せてくれるのではないか。

と、一瞬思ったが、虎千代様はそういった事を好まないのだろう。


何処までも真っ直ぐな御方である。



「其れと、本来の目的である聖正殿の仕事も見させてもらったぞ」


「そうですか。…如何でしたでしょうか、私の仕事は」


「とても素晴らしい働き振りだった。……が、少々多いのではないか? 父上や直江大和守殿も其処まで多くなかったぞ」


「必要な事がそれ程多いという事です」



実際は面倒なものを新参者に目一杯回して、嫌がらせをしようとしている輩のせいだろう。

そんな嫌がらせに最も有効な手段は、黙々と仕事をこなしていく事だと思う。


………後で痛い目を見るのは自分達だと気付かずに、無様に慌てふためく姿が目に浮かぶ。



「な、何やら邪悪な笑みを浮かべていないか、聖正殿」



おっと、顔に出てしまった様だ。

虎千代様が若干引いてる。



「気のせいで御座います」


「そ、そうか。ならば良いが………」




そうは言ってはいるものの、何処か納得していない様子の虎千代様。その証拠にちらちらと此方の表情を伺っている。



「さて、そろそろ御部屋に御戻りになりますか? 其れとも為景様に御挨拶しに行かれますか」



此れ以上変に警戒されても困るので話題転換。



「そ、そうだな………父上に挨拶してから自室に戻るとしよう」


「では御一緒します」


「いや、流石に一人でも大丈夫だぞ」


「そうですか。……しかし、私も為景様に直接御報告する事も御座いますし、何より………」



其処で言葉を止め、そして―――



「―――直江大和守殿達を抑えなければなりませんから」


「………あぁ…」




その言葉で全てを察した虎千代様は、やはり何処か悟りを開いたような表情をしていた。

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