小説『おかっぱ頭を叩いてみれば』
作者:しゃかどう()

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耳に金色の糸が絡むように音が聞こえる。きっと【ボブ】であろう。
【ボブ】は、今日もすこし力の入ったタッチでサックスを吹いていた。
休日の朝の、すこししっとりと水を含んだ廊下にただよう怠惰の雰囲気を一掃するその音は、誰もが振り返るであろう。その奏者は、どこを向くでもなく、何を見ているでもなく、視点は定まらず、まるで麻薬中毒症状が現れた如くに吹いている。
それは普通人が夢中で吹くと言うには程遠いものなのだろうけれど、でも彼女は夢中で吹いていた。僕は少なからずそう思った。
たまにかかるヴィブラートは、素人の焼きそばのようなうねりではなく、小川が水底を照らすように光ってするりと曲がるのである。なんとも美しい。曲は【星に願いを】だろう。
その朝日に照らされている金色のアルトサックスは、学校のものであった。彼女はこの吹奏楽部で楽器を所有していない数少ない一人であり、僕もそのうちの一人である。だが、決定的に違うのは、彼女のその卓越した技術であった。
「おはようございます、先輩」
彼女はその真っ黒いおかっぱ頭を揺らして、丁寧にお辞儀をした。不安定な譜面台に乗った楽譜は、ディズニー・クラシックス・メドレーというものだった。もちろんファーストである。
「ああ、おはよう」
彼女は一個下の一年生であり転校生であり、そしてこの吹奏楽部のエースであった。
学校は赤い髪や金色の髪がいるが、進学校という私立高校だった。そして部活もそこそこ有名であり、我が吹奏楽部は都大会でダメ金(全国大会に進めなかった金賞)という結果を残している。
そんな中で異質な黒髪のおかっぱは、嫌でも目立った。だから彼女は【ボブ】と呼ばれる。男性らしいあだ名だが、その真っ白い肌は彼女がきている白いブラウスと同じくらいの漂白感で、真っ黒い目は一重で大きく、短いまつ毛にびっしりと覆われている、『ちょっと美少女』だ。口は少し大きめで、いつも乾燥しているようでリップクリームを常備しているらしい。特徴は潔癖症であり、そして何よりこのなめられ先輩の【ダメ村】に対してさえも礼儀正しい子である。
「今日は、10時からゲネプロだそうです。かおり先輩が3-2の教室で待ってると言っていました。部長がもう少し早く来いと言っていました。そして斎藤先輩が準備室で待っています…飴村先輩を」
ロボットのような容姿のわりに彼女の声は低い。連絡事項を早々と伝えると、彼女は譜面台をカタカタならしながら片手で持った。そうして音楽室へ行きましょうと言うと、すたすたとどこまでも続きそうなグレーの廊下を歩き始めた。
「部長は怒っていたか」
「いいえ、そうでもありません。ただ斎藤先輩は口調がそうであるので、そうなってしまうだけです」
「ああ。でも5分前には着くようにしているんだけれど」
「斎藤先輩は10分前に来いとこの間言ったそうですよ」
「ああ、うん。そんな気もするなあ」
「斎藤先輩はよい方なので、冗談半分でしょうが、一応副部長もいるので、あまり流してはいけませんよ」
「見澤かあ」
しっと彼女は言うと、あたりを見回して、この距離では準備室の中にいる斎藤先輩の耳に入ってしまいますと言って口のまえに人差し指をちょこんと立てた。
「ええ。見澤先輩が出てきたら、たぶんミーティング沙汰でしょう」
「うん、忠告ありがとう」
ぴたりと準備室と呼ばれる、倉庫であり会議室である場所の前に僕たちは止まった。
古臭いそのドアのノブはボロンとぶら下がり、もはやノブではない。その後ろの第二音楽室のドアから出てきたトロンボーンの子は、おはようございますと言って、少々気の毒そうな目で僕を見た。
ボブはトントンとドアを叩くと、遠慮がちに細く開けて中を確認した。
「…斎藤先輩、失礼します。飴村先輩をお連れしました」
「ん」
ギイイイイと物凄い音を立ててドアが開けば、斎藤先輩は腕組みをして立っていた。すこし赤い顔をした色白の斎藤先輩は、いわゆる強い女である。リーダーシップは群を抜き、規則やぶり生が多いこの学校のこの部活をまとめ、やんちゃな奴も破天荒なやつも包むのである。言うなら部活の母親役。仁王立ちで彼女の体格の良さがより一層強くなり、僕の横に立つボブがより一層小さく見えた。
数秒後、古い木の匂いが、雨で湿気た空気をもわりとした空気をただよって鼻をついた。
「では」
キリッとさっぱり切り上げて、かかとでクルリと方向転換をして、彼女は第二音楽室の隣の第一音楽室へ入って行った。
黒いおかっぱ頭が、ふわりと揺れた。

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