小説『おかっぱ頭を叩いてみれば』
作者:しゃかどう()

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つかつかつかと歩く、おかっぱ頭のボブをみながら、5か月前のことを思い出していた。

「吹奏楽部に、入りたいんです」
バリトンサックスは、赤子2人分ばかりの重さである。それを首から下げるのはどうにも重い。学校の古いバリトンは、うねった部分に青錆がこびりつき、触れると鉄臭くなるというオプション付きの品である。そんな重いもので、さらに単調なコンクールの課題曲のマーチの伴奏を吹いていたのだから、その時の僕の機嫌は最悪だった。
そう、彼女の凛とした声で言われて、振り返れば、空の先輩の頭一つ分くらい小さい場所におかっぱ頭があった。夕暮れの橙色の光で天使の輪ができていた。
「あ、えと…」
はい。と言ってしまったのが運命だった。
僕は彼女を連れて斎藤先輩と言う名のゴジラが待つ部室へ向かった。
「吹奏楽部に入りたいんです」
あんぐり口をあけた斎藤先輩は、そのまま僕を見る。
ちょうどそのころは、5月末。この部ではコンクールの曲がやっと決まった頃である。そして、それは同時に狂気に満ちた練習の始まりの合図であり、僕以外の部員も九田先生のしごきに耐えぬき、イライラが溜まりにたまっている頃だ。そして1年生はやっと基本を覚えたところである。そこに途中入部とはあるまじき事である。
「ああ、えっと…」
「サックスなら、吹けます」
少し強めの口調で、斎藤先輩の諭す声を潰してボブは言った。むっとした斎藤先輩は再度僕を見る。ううんとうなって、ポンとわざとらしくジェスチャーをした。
「テナーなら空いてる、よね」
その瞬間僕は見抜いてしまった。この人は僕に責任を取らせようとしていると。もし、受け入れてしまったならば、空野先輩には確実に西部劇のように精神を引き摺りに引き摺られて、ボロボロにされることは決まる。そして断れば、無垢な少女の心を痛めつけた罪悪感で苦しめられる。なんという悪魔、ゴジラ。僕は心の中で斎藤先輩を呪った。
「じゃあ、聴いていただけますか」
「へ…」
「それで、ダメだったら…分かってるよな、ダメ村」
「へ…へい…」
こうして僕は彼女の入部を判断することになったのだ。

ガラガラと。それは地獄門のように見えた。
サックスとは対峙しているホルンパートに手短にわけを説明して、にやにやとした顔をされながら出て行ってもらい、僕は教室を占拠した。
「じゃあ、入って」
「はい」
「スケールって分かるかな。あれ、やってほしいんだけれど」
スケールとは音階の事である。ドーレーミーファーソーラーシードー、レードーシーラー…という具合のものだ。
これはとてもシンプルなので、奏者の技術をはかるのには持って来いの基礎練習のひとつである。
「分かりました。お願いします」
ぱちんぱちんとデコピンをするように、僕が渡したリード―…もちろん新品である…―を弾いてから、手なれた感じに構えた。
「…」
すうううう、と息を深く吐くと、それと同じくらいの空気を食うようにして吸った。なんとなく、プロっぽいなあとボーっと思った。が、その予想は的中するのである。
トロンとした音は、上品だがしっかりと芯をもち、核を持ち、僕の体にしみ込むように入ってきた。教室中にテナーの深みのある音が鳴り響き、壁を柔らかにかつ鋭く刺さっていった。終わったことも気付かないほど圧倒されていたようで、彼女があのう…と遠慮がちに言った。
「どう、でしたか」
「……なんか…なじむ…かんじ」
我ながら意味不明のコメントをしたと後悔した。今までで一番おかしなコメントである。もともとコメントの質の悪さと意味の難解さには定評があったものの、ここまでとは…などと思っていたが、案外彼女は嬉しそうな顔をしてニコニコと幼い笑顔を顔じゅうに広げている。
実はこの時以来、僕は彼女の笑顔を見ていない。他の誰も彼女の笑顔を見たことはないだろう。それくらいに珍しいものなのである。
「入れますかね」
「部長と先生に直談判してやる」
そう言って教室から彼女ごと飛び出して、部長と先生に談判しに行った。
それはダメ村唯一の伝説として語り継がれている…といいと思う。
だが、とにかくそれは周知の事実なのである。

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