みかん。
やはり、この町はどこからか、みかんの良い匂いがする。
僕は犬みたいに、ふんふん匂いを嗅ぎながら、町を練り歩いた。
福猫町は、駅前通りは商店街などで、そこそこ賑わっているが、駅から離れると、基本的には閑静な住宅街で、非常に落ち着いた雰囲気を放っている。
僕は、お爺さんが近くに大学があると言っていたの思い出し(舟木がそこの学生らしい)、ぶらぶら歩きながら、その大学を探してみることにした。
理由はとくにないが、久しぶりに大学特有の、あのゆるやかな感じを味わいたかったのだ。
駅前通りを越え、やわらか画廊のある住宅街の通りも越え、ひたすら、まっすぐ歩いた。
しばらくすると、木が生い茂る広い公園(というより、ちょっとした森)に出た。
公園の中には、テニスコートもあり、学生らしい男女が楽しそうにテニスをしていた。
おそらく、大学の所有するテニスコートなのだろう。
僕は、公園内の自販機でジンジャエールを買い、目に入ったベンチに座り、それを飲んだ。
黄色く染まったイチョウと、テニスをする学生達を、交互に眺めながら、ジンジャエールを飲むのは、なかなかいい感じだった。
何て緩やかな時間なのだろう。
僕はこの瞬間を味わった。
そして、ちょうど、ジンジャーエールを飲み干すと、どこからともなく、黒猫が現れた。
以前、駅前で見た猫だろうか。
『こんにちわ』
僕は例によって猫に向かって話しかけてみた。
『・・・』
『お前はこの前、駅にいた猫かい?』
『・・・・』
猫は何も言わず(当然だが)、僕をジッと見つめていた。
『お前は一体何してるんだ?』
『・・いや、あなたが何してるのよ』
猫が喋った!!
・・と、最初、思った。
しかし、声が後ろからしたことに気付き、後ろを振り向くと、涼しい目をした文学少女が立っていた。
『何してんの?』
彼女はまた聞いた。
『えっと、別に・・、何も・・・』
僕は猫に話しかけているところを文学少女に見られ、急に恥ずかしくなってきた。
しかも、気付けば、もう黒猫はいなくなっていた。
『そっちこそ、こんなところで、何してんの?』
僕は話題を変えるために、聞き返した。
『読書』
彼女は端的に、そう答え、文庫本を僕に見せた。
『こんなところで?』
『そう。そこ、あたしの特等席』
彼女はそう言うと、僕の座っているベンチを指さした。
『ああ、ごめん』
僕はジンジャエールの缶をどかし、彼女の座れるスペースを作った。
『ジロウさんのアパートに、引っ越してくるって本当?』
彼女は僕の隣に座った。
『うん。というか、もう昨日引っ越してきたんだよ』
『へー・・』
彼女がそう言うと、しばらく気まずい沈黙が続いた。
何を話していいのか、僕はよく分からなかった。
『何の本読んでるの?』
僕は彼女の持っていた文庫本に目につけた。
『ノヴァーリスの青い花』
聞いたこともなかった。
有名な作品なのだろうか。
『ノヴァ―リスって有名な人なの?』
『さぁ・・、割と有名なんじゃない?まだ、ドイツの詩人ってことだけしか知らないけど・・』
『まだ・・?』
『だって、まだ読んでないもの。さっき、大学の図書館で借りてきたばっかりなの』
そう言うと、彼女は、その本をパラパラめくりだした。
彼女も、この町にある舟木と同じ大学に通っているのだろうか。
僕の通っていた美大では、なぜか図書館に小説の類の本はなかったので(画集などは山のようにあったが)、彼女の言うように、大学で小説を借りれることに不思議な感じがした。
『君は、本が好きなんだね。いつも読んでいるの?』
僕は、適当に思ったことを口にした。
しかし、なぜだか分からないが、それがどうも彼女の気に触ったらしい。
『だから何?何か問題ある?』
『いや、別に問題があるとか言ったわけじゃなくて・・』
『あっそ。じゃあ、あたし、コレ読むから。アナタは、どっかに行ってきたら?』
つまり、『とっと、失せろ』という意味か。
文学少女の、謎の突然の怒りに、そこから立ち退かずにはいられなかった。
彼女はなぜ怒ったのだろう。
僕はこれから働くやわらか画廊の娘である彼女に嫌われたんじゃないだろうかと心配なった。
そもそも、それ以前に僕はこの町でやっていけるのだろうか。
とにかく、みんな変な人ばかりで本当に不安だった。
僕はひとり遠い町からやってきたのだ。
〜第一章・完〜