小説『遠い町からやってきた。』
作者:加藤アガシ()

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『こんにちわー』

『・・おう』

僕が喫茶店『楓』に入ると、マスター・ノリスケは、いつものようにコーヒーカップを執拗に磨いていた。
彼は、どれだけコーヒーカップを研磨すれば気が済むのだろうか。
きっと、コーヒーカップを磨くのが、手癖みたいになっているのかもしれない。

『ブレンドコーヒーと、ランチセットおねがします』

『あいよ』

僕の注文でマスター・ノリスケはコーヒーカップを磨く呪縛から、やっと解放されたのだ。
僕はそんなことを思い、一人にやけた。


『マサルくん、こんにちわー』

お爺さんとお婆さんは、いつも窓側の席の隣の席に座っていた。

『こんにちわー』

僕も挨拶しながら、自分の特等席になりつつある窓際の席に着いた。

『今日はお昼休み早いのね〜。どう仕事は?もう慣れた?』

『いや、相変わらず・・、座っているだけです』

僕は苦笑いして答えた。
画廊の仕事は本当に給料をもらうのが申し訳ないくらいだ。


『暇なのはいいことだよ、マサルくん。リラックスリラックス』

そう言うと、お爺さんはコーヒーを啜る。
彼は、今日も上等な、クリーム色のセーターを着ていた。
もちろん、お婆さんは、またそれよりも上等そうなカーディガンを着ている。

『でも、今日は午後から、お得意さまのお客さんが来るらしいんですよ・・』

僕は思い出して言った。

『あら、そうなの?初のお客さん?』

『いやぁ、なんか上杉さんによると、なかなか厄介なお客さんだそうで・・。
だから、僕はこの後は倉庫の掃除を任せられているんです』

『接客させてもらえないの?』

『・・ええ』


お婆さんにそう言われて、僕はなんだか上杉さんに信用されていないような気がしてきた。
そのお客さんがいる間、僕は邪魔にならないように引っ込んでいなければならない。

『はい、おまち』

僕が被害妄想を始める前に、ちょうどよく、マスターノリスケはコーヒーとナポリタンスパゲティを持ってきた。
見た目は、とてもおいしそうだ。
でも、味はいつも通り、きっとパッとしないんだろう。

『じゃあ、マサルくん。お食事するでしょうから、私たちはそろそろ帰るわ』

『じゃあね、マサルくん。頑張って』

そう言うと、二人は会計を済ませ、僕を置いて行ってしまった。
この後、二人は家で昼食を取るのだろうか。
楓に一人残された僕は、食事しながら、いつもそれを考える。
本当はそんなことは二人の勝手だし、別にどうだっていいのだけど。

僕はもうお爺さんとお婆さんのことを考えるのを止そうと思った。
しかし、その後、例の厄介なお客さんのことを思い出し、やっぱり二人のことを考えることにした。
暗いことは考えない方がいい。
そうしないと、この特別おいしくないだろうナポリタンは、さらにおいしくなくなってしまうだろう。








僕が画廊に帰ってくると、上杉さんは、中学生くらいの太った少年と話していた。

『お願いします!!』

『いやいや、いくらなんでもそれは無理だよ〜。あっ、マサルくんお帰り』

上杉さんが僕に気付くと、その少年もチラッと僕のことを見た。
まさか、この子が例の厄介な客なのだろうか。

『いらっしゃいませ』

僕がそう言うと、少年は軽く会釈した。
かなり太っていて髪の毛は脂っこく、顔もニキビ面だけれども、礼儀正しいようではある。
どう厄介なのか、僕はよく分からなかったが、上杉さんに言われ通り、ここにいない方がいいのかもしれない。

『じゃあ、僕は倉庫の掃除をしてきます』

『いやいやいや、まって、マサルくん。この子は違うから、まだここにいて大丈夫だよ〜』

『へ?』

『いやぁ、この子はね〜。駅前通りに住んでいる子でね。この絵を5千円にしてくれって言うんだよ〜』

上杉さんが指さしたのは、若手作家の牧場の風景画だった。
値段は7万8千円。

『どうかお願いします!!これしかないんです!』

少年の手には、確かに5千円が握られていた。
いくら何でも無理があるだろう。

『何で、この絵が欲しいの?』

『それは・・・』

僕がそう聞くと、少年はなんだか急にモジモジし始めた。
正直、不細工な少年のモジモジした姿は見るに堪えないほどに気持ち悪かった。


『ふふふ。この子はね、好きな女の子にこの絵をプレゼントしたいんだって〜』

上杉さんの言葉に、少年は顔を赤らめて一層、モジモジした。

『この絵じゃないとダメなの?』

画廊には、5千円で買える絵はほとんどなかったが、それでも、7万8千円より、安い絵はたくさんあった。

『メ、メグミちゃんが、この絵の話をしていたんです』

『ほら、マサルくん。一昨日くらいに来た女の子覚えてない?』

『一昨日・・・』

僕は一昨日の記憶を探った。
そういえば、美術館代わりに来た(あくまでも、僕がそう思っただけだが)親子が、この絵を熱心に見ていた気がする。

『もしかして、ショートカットの子?』

僕の言葉に少年は黙って何回も頷いた。
たぶん、イエスだ。

『うんうん、いいよね〜。青春だよね〜。僕だって応援してあげたいけどさ〜。でも、さすがに5千円が無理だよね〜』

当り前だ。
もし、5千円で売ってたりしたら、ただでさえ客の少ないこの画廊はすぐに潰れてしまうに違いない。

『そこをなんとかお願いします!!』

『う〜ん、困ったな〜』

『どうかどうかお願いします!!』


少年はひたすら上杉さんに頭を下げた。
性格の悪い僕は、どうせこの不細工な少年が、目当ての女の子にこの絵をプレゼントしたところで、おそろく結果は見えているだろうにと思っていた。

『そうだな〜、じゃあ、今回は特別に・・・』

『ダメよ!』

僕らが驚いて振り向くと、大学から帰ってきた文学少女が怒っていた。

『そんな値段で売ってどうすんのよ!まったく儲からないじゃない!』

文学少女は、声を荒げた。

『だ、だよね〜。そうそう、5千円じゃいくら何でもダメだよ、うん。
ダメダメ!分かったかい、キミ?』

『え〜・・』

少年は思わず唸る。
あとひと押しで5千円で買えていたかもしれないのだ。


『とにかく、どんな事情があっても、5千円じゃ売れないよ!
もっと別の方法で、彼女のハートをゲットするんだ!恋はガッツだ!!』

上杉さんは熱弁する。
しかし、まったく説得力がない・・。

『あんたも、わかった!?ウチは5千円じゃ売れないから、もう、よそに行きなさい!』

文学少女は今度は少年に向かって声を荒げる。
客だろうと何だろうと、関係ない。
とにかく、彼女はめちゃくちゃだ。
少年は怒鳴られて縮こまる。

『まぁまぁ、茉莉ちゃん。この子も恋の季節なんだよ。やさしくやさしく・・』

『はぁ?』

文学少女は軽蔑的なニュアンスを込めて、そう言い、少年の顔を見る。
しかし少年は見られて、顔を赤らめる。

『モノで釣る前に、もっと自分を磨いた方がいいわよ』

彼女は不細工な少年に向かって、そう言い放つ。
『深い』と僕は内心で思う。

『そうだね〜。まず、髪は毎日洗った方がいいよ〜』

上杉さんはそう言って、少年の肩のフケを払う。
それに一層、少年は顔を赤らめる。

『また、お金を貯めたら、来ます』

そう言うと、少年は逃げるようにして画廊から出て行った。
しかし、もう彼はこうないんじゃないんかなと僕は思った。


『今日は、学校早いね?茉莉ちゃん』

上杉さんは文学少女の顔色を伺う。

『そんなことより、もう値引きとかやめてよね!それにあなたも、お父さんを止めてよね!一応、あなただって…』

『ちょっと待った!』


上杉さんは当然、神妙な顔つきで文学少女の話を止めた。

『お客さん来たみたいだから。じゃあ、マサルくん。倉庫の掃除頼むよ!』

『は、はい!』

僕は突然のことに焦って、ホウキをもって倉庫に向かう。

『え、え?何?どうしたの?』

一方、文学少女は突然のことに困惑したようだ。

『いいから!茉莉ちゃんもホラッ!倉庫でも行ってて!
マサルくん!茉莉ちゃんも連れて行って』


上杉さんに言われて、僕は文学少女の腕をつかんで、無理やり地下倉庫に引っ張っていった。
ついに、例の『やっかいな客』が来たのだ。












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