『さっきから何見てるの?』
突然、話しかけられて僕はびっくりした。
僕が振り向くと、店員の文学少女がこっちを睨みつけていた。
本当に、文字通り、僕のことを睨んでいるのだ。
店員のくせに、なんて高圧的な態度だろう。
『いや、あそこの画廊は開かないのかなと思って・・』
僕は窓の先のやわらか画廊を指さしながら答えた。
正直にいえば、僕は少し緊張していた。
彼女にはそういう、人を強張らせる独特の雰囲気があった。
『画廊に何か用?』
『実は・・』
『こんにちわー』
僕が口を開いた瞬間、突然、店内におじいさんとおばあさんが入ってきた。
『あ、いらっしゃい』
僕は耳を疑った。
僕には何も言わなかった文学少女が、二人に愛想よく挨拶したのだ。
なんだ、それは?
『いつものを頼むよ』
『はい、ブレンドとアップルティーですね』
僕は、彼女の明さまな贔屓(ひいき)に腹が立った。
例え、二人が(たぶん夫婦だろう)常連客だったとしても、僕との扱いに違いがありすぎる。
それに加え、この世の全てがめんどくさいはずのマスターまで、ニコニコして、その老夫婦を迎え入れた。
僕はこの事実に少なからず、傷ついたし、戸惑った。
何なんだ、この喫茶店は?
よそ者に対しては冷たくするのがルールなのだろうか。
僕は混乱した。
『あれ?お客さん?珍しいね〜』
入ってきたおじいさんは僕の存在に気付くと、そう呟いた。
いや、呟いたというか、僕に対して話しかけたのかもしれない。
僕はどちらとも判断できなかったので、何も言わず、軽く会釈をした。
僕は総じて人見知りしやすい。
例え、それがいかにもやさしそうで、品のいい老夫婦だとしてもだ。
『あなた、この辺の人じゃないでしょう?どこから来たの?』
老夫婦は僕の隣のテーブルに腰かけると、今度はおばあさんの方が僕に向かって言った。
まちがいなく、僕に向かって。
『あの、えっと、岩熊という所から来ました。絵を買いに来たんです。あそこの画廊に。ちょっと、知り合いに頼まれて・・』
僕は文学少女に聞かれたときと同様に、少し緊張しながら窓の外のやわらか画廊を指さして答えた。
『へぇ。だってさ、茉莉(マリ)ちゃん』
僕の指さした先を見ると、おじいさんはそう文学少女に向かって言った。
なんで、そんなことを一々、無愛想な彼女に報告する必要があるのだ。
僕はまた、彼女に睨みつけられるのではないかとちょっと身構えた。
◆
茉莉(マリ)ちゃんと呼ばれた文学少女はもう一度、僕のことを睨みつけた。
いや、今度は睨みつけた言うより、僕の顔をジロジロと確認したという感じだろうか。
まるで、気難しい彫刻家が出来上がったばかりの自分の作品を細かく点検するかのように。
『なんて絵を取りに来たの?』
彼女は何の感情も籠っていない抑揚のない声で僕に言った。
『えっと、タイトルは知らないんだけど、イルカの絵・・』
僕は慄き、答えた。
秋山先輩からもらった情報は、イルカの絵であるということだけだった。
僕は、もしかしたら、やわらか画廊がラッセンの絵を専門にあつかう画廊なのではないかという不安に駆られた。
『イルカの絵ねぇ・・・。あったかな』
彼女は府に落ちないという顔で呟いた。
『覚えはないのかい?』
コーヒーをすすっていたおじいさんがコーヒーカップを置くと、口をはさんだ。
『ええ、記憶にないですね。まぁ、いいや。あなた、ちょっとそこで待ってて。マスター、あたしもう上がります』
『あいよ、おつかれ』
文学少女がそう言い、マスターがそれに答えると、文学少女はカウンターの奥へ、行ってしまった。
たぶん奥には従業員室か何かがあるのだろう。
僕が、文学少女の言葉と行動を読めないでいると、おばあさんがニコニコしながら教えてくれた。
『あの子、あそこの画廊の子なのよ』
『ああ、なるほど・・・』
僕は彼女が画廊で育ったことを知り、なんとなく彼女の独特の雰囲気の秘密が分かった気がした。
これは僕が美大時代に思ったことなのだが、幼い頃から絵に触れる機会が多かった人間は、ちょっと他の人間とは違う雰囲気を放つ。
どこがどう違うのかと問い詰められると、上手く説明できないけれど、大体は自分なりの世界を持っているので、他人に対して、どこか主観的な感じになる。
僕は大学時代、そういう人間を目の前にするたびに、なんだか無人島に置き去りにされたかのような孤独感を感じたものだ。
なぜなら、圧倒的な彼らの前では、僕なんか、ありふれた凡庸な人間だからだ。
『ついて来て』
私服に着替え、すぐに出てきた文学少女は僕にそう言うと、老夫婦とマスターに軽く会釈だけして、店の外へ出ていった。
僕は急いで、マスターにコーヒー代を払い、彼女の後を追って店の外へと出た。
黒いパーカーにジーパン。
そんな飾り気のない格好をした文学少女は、店の中ではたいして気にならなかったが、意外なほど小柄だった。
よく見れば、顔も小動物っぽい。
しかし、彼女はその小さな歩幅で、後を追いかける僕のことなど、まるで気にも止めず、スタスタ先を歩いた。
彼女は、僕が思う以上にエゴイスト(主観的)すぎるみたいだ。