考えない。
考えたくないのに、僕は嫌な予感がして『楓』に入るのをためらった。
『僕が茉莉に好意を抱いている』と勘違いしたヒノキさんが、彼女に向かって何を言っているか分からないからだ。
もし変なことを言っていたら、気まずくて仕方がない。
僕は気付かれない様に、『楓』のしゃれた小窓から店内を覗いてみる。
しかし、角度的な問題で何も見えない。
カウンターの方を見るためには、もう少し、斜めから覗きこまないといけない。
しかし、そうすると、中からこっちが気付かれてしまう。
僕は忍者のごとく、体を捻り・・・
何をやっているんだ、思春期の少年か!
突然、自分の行動と、その情けなさに、なんだか馬鹿らしくなってきた僕は、思い切って店内に入ることにした。
堂々と胸を張って。
それはまさに、王様のごとく。
『こんにちわー』
『ちょっと、こっち来てッ!!』
と、入った瞬間、突然現れた茉莉に腕を掴まれ、僕は店の外に連れていかれた。
なぜか、彼女は怒っている。
『何?何だよ?』僕は嫌な予感がする。
『何だよじゃないわよ!こっちが何なの!?アイツ!本当にもう何なの!?』
『アイツ?』僕は一応確認する。
『あのホームレスよ!!あんたの先輩!!』
茉莉のその言葉に、僕は背筋がぞくりとした。
やっぱりヒノキさんが彼女に向かって、何か余計なことを言ったに違いない。
僕は思わず、しどろもどろになってしまう。
『あの・・、えっと・・、ヒノキさんから何か言われたの?』
『言われたもクソもないわよ!アイツったら・・』
『おいおい、二人とも何、内緒話してるんだよ!』
茉莉の話の途中で突然、ヒノキさんがニヤニヤしながら店の中から出てきた。
それに対し、茉莉は『ヒッ・・』と声を挙げ驚き、話すのをやめる。
そして、急によそよそしくなる。
一方の僕は、おそらく彼女に何かを吹き込んだのだろう彼のその二ヤついた顔を見た途端、彼をぶん殴りたくなってきた。(もちろん、殴らないけれど)
まったく、ヒノキさんは茉莉に一体何を言ったんだ。
『ヒノキさん、一体・・?』
『ほら、これ!!マサルも!!』
僕が問いかけるといなや、ヒノキさんはいきなり僕に袋に入った大量の紙を手渡たした。
なんだ、これ?
僕はその袋の中から一枚、紙を取り出した。
『楓にいらしょい!とってもおいしいランチ始めたよ!』
紙に手書きされたその言葉と、豚らしき謎の生物のイラストを見た僕は絶句した。
しかも、字間違っているし・・。
いらっしょいってなんだよ・・。
『あの・・?これは、ビラですよね・・・?』
『そう、ビラ!早めに来て時間が余ったから、これを作っていたんだよ。いいだろ?これで客寄せして、俺の料理を食えば、この店は大繁盛間違いなしだろ!?』
『ええ・・、そうですね・・』
僕は顔を引きつらせるしかなかった。
もともと広告会社で働いていた僕にとって、このビラのクオリティーの低さはもはや前衛芸術の域に達しているんじゃないかと思えた。
謎の豚のイラストが妙に見た者の怒りを誘う、斬新かつインパクトのあるひどいデザインだ。
そして、そもそも、店主のノリスケはこの店を流行らしたいのか・・。
お前はヒノキさんにそんなビラを配る権利を与えてそれでいいのか、ノリスケよ・・?
僕はヒノキさんの謎の商売意欲にため息をついた。
しかし、それに気付いていないのか彼は言う。
『じゃあ、今からこれを二人で配ってこいよ!!』
『はい?』何を言っているんだ、この人は。
『いやぁ〜、ちょうど良かったぜ。マリ一人にやらせるより、二人で配った方が効果あるもんな!!』
『あの・・、一応、僕は客として、ここに来たんですけど・・』
『いいからいけよ!時間の無駄だろ!』
ヒノキさんは急に声を荒げる。
僕は『茉莉と二人で配ってこい』という、彼のその言葉の意図が分かりうんざりする。
しかし、ヒノキさんは僕らに有無を言わせず背中を押し、駅の方へ僕らを送り出した。
後ろを振りかえると、ヒノキさんは意味ありげにウィンクしていた。
だから、僕は別に茉莉のことが好きなわけじゃないんだって。
◆
『そんなに怒るなって』
『ねぇ、それ本気で言っているわけ?こんな変で恥ずかしいビラを配らなくちゃいけないのに?』
しかめっ面した茉莉に、思わず僕がそうなだめると一層、彼女は膨れた。
確かに僕だって、これを配るのは恥ずかしい。
僕は冗談っぽく言った。
『配ったことにして、これ捨てちゃう?』
『それ本気で言ってるの?あなたってサイテーね。もったいないじゃない。せっかく作ったのに・・』
僕は冗談で言ったとはいえ、彼女が意外に律義なことを言うので驚いた。
自分から、このビラに文句をつけたくせに。
一応、ヒノキさんは嫌っていてもバイトさせてもらっているマスターには恩があるのだろうか。
しかし、このビラで却って、店の評判が悪くならないだろうか僕は心配した。
『ねぇ、このビラについてマスターは何て言っているの?彼はひっそりと店をやりたいんじゃないの?』
僕が思ったことを口にすると、彼女は急に笑いだした。
『ふふふ、そのビラの豚のイラスト・・、マスターが書いたのよ』
『え?』
僕は思わず、その袋からビラを取りだし、イラストをもう一度見た。
擬人化された豚(らしき生物)が小憎たらしい笑みを浮かべ、『おいでよぶー』と言っていた。
あの硬派なマスター・ノリスケがこれを・・?
僕も思わず吹きだした。