子ども達が帰り、静まり返った校舎の中で試験管を洗う蒸留水の音だけが理科室に響いていた。
次のものを洗おうと手を伸ばすと、そこにはもう何もなかった。
理科室の試験管やガラス管等、洗えそうなものはすべて洗ってしまった。
「だからドッキリでしょ?」
「違うって。俺はお前のことが好きなんだ」
昨日の帰りの車の中でこのやりとりが何万回繰り返されただろう。
何かしていないと否応に思い出してしまう。
「ドッキリでしょう」
自分に必死に言い聞かせた。
めだかを小さい容器に移し替え、水槽をザブザブと力任せにこすった。
窓は全開にしているが、部屋中に熱気が漂っている。
額から汗が落ちた。
本当は少しずつ気が付き始めていた。
あいつがあそこまでドッキリを否定する理由も私にドッキリをかける理由もないということを……
けれども私はこれ以上恋で傷つきたくはなかった。
恋に目がくらんで自分を見失うような馬鹿女にはなりたくはない。
誰だって20代後半にさしかかれば気がつくだろう。
シンデレラの様に汚くて冴えない娘が、王子様の気まぐれで結婚してもうまくいくわけがない。
窓からは青白く綺麗な月明かりが差している。
いつもにも増して、この狭い部屋が息苦しく感じた。
窓に映るもう一人の俺に喋りかけた。
「ドッキリでしょ?だってさ。お前振られたんだぞ。好きだって言ってんのに、信じても貰えずにさ」
窓に映る自分は男前だけれども、情けなかった。
「ああぁ。もう何もする気力が起きねえ。なんか全身だるい……」
布団に倒れこむと不思議とすぐに眠気が襲ってきた。
理科室のありとあらゆるものを掃除し終わり、家路に着く。
所々街灯があるが星明かりが道を照らしてくれていた。
少しでも気を抜くとドッキリではないと認めて、恋に目がくらんでしまいそうな自分がいる。
ふと空を見上げると、月が青白くとても綺麗だった。
あいつもどこかでこの月をみているのだろうか。
遠くに救急車が走っている音が聞こえ、我に返った。
「あいつもこの月見てるのかなって気持ち悪!」
さっきインターネットのワキぺディアで見つけた恋に目がくらまなくなる呪文を唱えることにする。
「今まで女性経験人数がドラえもんの体重を超え、いづれデーモン閣下の年齢を目指すとのこと。女性との平均交際期間は1カ月。
中学生の頃からありとあらゆる女をくどく。しかし飽きっぽくすぐに破局を迎える。」
段々と正気になっている気がする。
いいぞ、この調子だ。
また呪文を最初から唱え、アパートの階段を上ろうとしたその時、背後から声をかけられた。
「美香」
振り向くとてっちゃんが立っていた。
今まではありふれた光景だったけれど、いまはそういうわけにはいかない。
何を喋っていいのかもわからない。
「えっ、あっ、その」
「そんなに挙動不審になるなよ」
「はっきり返事しなくちゃいけないね……」
「まだしなくていいから!」
「えっ?」
「今聞くと必ず断られるから、聞かない。だからもっと考えてくれ、
1年だって2年だっていい。何ならもう15年待ったっていい」
そういうとてっちゃんは少し笑った。
「俺とお前はこれからも友達だ。それは何にも変わらない。そうだろ?」
珍しくアパートの前を車が通った。
車が見えなくなり、私は小さく頷いた。
「……うん」
「今からトニーに飲みに行くか?」
「……そうしようかな」
他愛もない話をしながら久しぶりに二人で歩いた。