小説『なまやつはし兄弟』
作者:荒金 緑()

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 なまやつはし兄弟




 「兄ちゃんは、綺麗な薔薇には棘があるという言葉が大好きだ。……そうだな。例えばこの言葉を人間の女性に当て嵌めてみよう。綺麗な薔薇を、魅力的で美しい女性とし――棘は……あ、棘もその女の事だな」
 「そうですね」
 「男は女を守る為の生き物だから、そのかよわい小動物が困っていたり、弱っていたりすると、どうしても手を差し伸べたくなる。で、何故かそんな状態の彼女が、心無しでもいとおしく感じてしまうものなんだな」
 「人それぞれですね」
 「女もまた、頼れる男がかっこよく見えてしまうものなのだ。――だが男は、調子に乗って早々にその女を口説いてしまってはいけない。ここで、綺麗な薔薇には棘があるを使おう」
 「うん」
 「我々おとこが手を差し伸べた段階では、女はとってもニコニコしている。ちゃんとお礼も言うだろう。感謝の気持ちでいっぱいだ。いっぱいおっぱいだ」
 「うん」
 「しかしここで『あの……。おっぱい見せて下さい』と言えば、先ほどまでニコニコしていた彼女も急に態度が豹変し、気がつくと兄ちゃんのほっぺが腫れてたんだ」
 「……実体験の話をしていたんですね、気がつきませんでした。まだまだ僕は兄上のように一人前では無いみたいなので、お友達とお外でお修行してきます」
 「あ、いや待て弟よ」
 「いいえ待ちません」
 「いや待てって」
 「待ちません」
 「じゃあ兄ちゃんも行く」
 「来ないで下さい」
 「分かった。分かったよ。じゃあ後……五分」
 「……はい。じゃあ五分だけ」
 「うむ」
 「――しかし、割と凡庸な例えだったのは気になりますが、言っている内容には共感できました」
 「何その見下してる感まるだしなセリフ。さっき兄ちゃんのこと尊敬してる躰なアレだったじゃん……」
 「先日、僕もその棘に刺さりました」
 「……おいおい、弟よ。お前まだピカピカの小学三年生だろう。全く、最近の子供がマセているという噂は本当だったんだな。――で、どんな棘に刺さったというのだ」
 「はい。 先日、お年玉の残りを全てお財布に入れまして、新宿は歌舞伎町までひとり出向いてみたのです。そして、一度は行ってみたかったキャバクラへと足を運んだのですが、やはり未成年を入場させて下さる店はなく、一時間と持たずに僕は当惑してしまいました」
 「おまわり仕事しろよ」
 「街駆ける喧噪そして――男に生まれて来たというのに、宝石の鏤められた時計やネックレスをつけた下品な黄色い豚がアンダーグラウンドへと自ら堕ちてゆき、それに伴い、典型的な若サラリーマン達もが闇まで続きます。……全く、偽りの愛で目の前がいっぱいか。その歳になってもまだ真実の愛が見つからないなんて、寂しい人生だぜモンキー」
 「お前は何をしに歌舞伎町に行ったの」
 「平成生まれも然り。『俺はまだ若い』『だからまだ遊びたい』『それからでも遅くない』――理想の女はまだ現れていない。そう云った勘違いが、自身の時間を急速に、残酷に奪ってゆく。 『俺は彼女と真剣に交際している』『でもまだ結婚は早い』『彼女の事は本気で好きだけど、これから他に、もっと良い相手と出会うかもしれない』――そんな本気は本気ではないと、そんな矛盾にすら気づかない今の若者は、日本は、とりあえず政治から見直した方がいいと思います」
 「お前はさっきから何の話をしてるの」
 「今ある世界に絶望した俺は――」
 「一人称が俺になっちゃったよ」
 「――気絶させた駅前広場の住人からもぎ取った安い葡萄酒を夜風で冷やしながら、親父の書斎からくすねて来た一本のフィリップ・モリスに火を付け、星空を見上げた」
 「なんだこの九歳」


 「ブランデー?ひとつここに注いでよ」
 気がつくと横に、女が座っていた。年端のいかない不良娘が、無理して顔に化粧を施したような、厚い瞼が印象的だった。
 「ホーリーオーダーズ、あたしも好きだよ」
 その擦れ気味な声から、さっきまで俺が、アイオワのロック・バンドのヘヴィーナンバーを、知らず知らずのうちに口ずさんでいた事を告げていた。
 「スロービートなマリリンも、セクシーだろう」
 「震えちゃうね」
 女は人の酒を勝手にあおりながら、ブルブルと震えてみせた。口先で笑っている。寒空の下、ひとり楽しそうだった。
 スプリングボブのバラけた毛先が、ノースリーブで顕わになっている細い肩をくすぐる。指を乗せると、俺の体温と僅かな指圧で、女の肩には木皮色の後が残った。
 「肩はね……高いよ」
 ほんの冗談で言ったつもりなのは分かっていた。
 「いくら?」
 しかし二月の俺は、少しばかり金を持っていた。そう。先ほども言ったが、お年玉の残りがまだ十分に残っている時期なのだ。
 「え〜……」
 ニヤニヤする女の前に、肥満で苦しんでいる俺の財布をそっと取り出す。
 「百万!」
 「――すまないな。さすがにそんなには持ってない、が――」
 旧正月から一週間。この国にはあまり関係のない行事だったが、地元の神社でゲン担ぎをした甲斐もあった。
 チェリー残さずに能う。星は退き、今宵も月が出た。
 「――四千飛んで八十五円なら……――――」
 気づくと横に、餓死した俺の財布と、倒れたビンの蓋を舐める野良猫が一匹。
 寝言は寝てから云うべきだった。俺にこの街は似合わない。いや、鼻から来てはいけない所だったのかもしれない――――。


 「眠れない街と掛けたんだな」
 「はい」
 「ひくわ〜……さすがの俺でもそれはひくわ〜……。お前、肩て。いやぁひくわ〜……さすがにそれはお前、この、ド変態が」
 「……棘、痛かったです」
 「そうだな、うん。 もう五分経ったから遊びに行ってきていいぞ」
 「いえ。兄上、今日は僕、お家におりたい気分になりました」
 「いや、行って来い」
 「行きません」
 「行け」
 「ここにいます」
 「一人にしてくれ!今の兄ちゃんの心境を察してくれ!」


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