小説『Merlin』
作者:体力ピエロ()

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「俺は嘘つきだからな」
 坂口は、いつもそう威張っていた。彼がついた嘘を挙げれば、一〇〇日かかっても述べきれまい。
 だからそんな嘘つき坂口が、まさか日本のトップに上り詰めるとは、おそらく誰一人として考えていなかっただろう。しかも三十八才、史上最年少総理大臣である。衆議院議員に当選したのが十二年前のことだ。当時野党だった民政党のホープとして立候補、若さの勢いに乗って当選を果たしたのである。さすがにその時の選挙戦では、「俺は嘘つきだ」などととは言わなかったが。
 党員の中でも特に目立つ存在であり、テレビなどにもよく出演していて人気も高かった彼は、それらを買われて、三年前に党の最年少総裁に就任。圧倒的な人気の上に、与党・公民党首相のスキャンダルなども重なり、衆議院選挙で圧勝。見事に政権を奪取したのだ。
 
 
 首相に指名されたその日の夜、祝福の美酒を存分に仰いで、まもなく床に就こうとした坂口の携帯電話に、コールが掛かって来る。高校・大学時代の友人、伊藤からだった。
「久しぶりだな、陽一」
 自分の名前を呼んで来る。時の総理大臣にこんな呼び方を出来るのは、恐らく彼らだけだろう。
「七年ぶりだな、お前と話すのは」
「職務中じゃないのか、伊藤」
「今何時だと思ってるんだ。それに、今日はもともと非番の日だよ」
 伊藤は警視庁捜査第三課の刑事でもある。六年前、とある強殺事件を管轄外にもかかわらず解決したとかで、警部補から警視に昇進したらしい。
「今日から陽一が日本のボスかあ」
「俺じゃ嫌か?」
「お前の不細工な顔が、これから毎日テレビに映るのはいただけないね」
 もちろん、皮肉だ。坂口は、引退後は俳優になれるような顔とスタイルも持っており、それがまた大人気の大きな要因となっている。
「せいぜい我慢したまえ」
 今に日本を変えてやるから、という言葉を背後にしのばせる。
 数秒の沈黙の後、伊藤が話題を変えた。
「……確か高二のときだったかなあ」
「何がだ?」
「ほら、権力者の嘘つきの話だよ」
 ああ、と坂口は声を上げた。
 高校生のときから、坂口は半分本気で―逆に言えばふざけ半分で―政治家を目指していた。
 
  *
 
「今の議員はみんな死んでるね」
 四時限目の現代社会の授業が終わった後の昼食時、坂口は急に大声を上げた。一瞬周りの視線が集まるが、次の瞬間には“何だ、また坂口か”とすぐに逸らす。いつものことだ。
 坂口はクラスでも目立つ性格で、無論人気もあった。成績優秀・スポーツ万能に顔良しと来たら、そうなるのが相場だ。しかし、彼と親しくなった人間は、すぐに坂口は変人だということに気づく。伊藤もその一人であった。
「何を急に言い出すんだ」
 一緒に食べていた伊藤が、呆れ顔でたしなめる。
「おい伊藤、お前はそう思わないのか?」
「興味ない。投票できるのは数年先だろ」
 お前みたいな冷めた奴らばっかりだから日本は駄目なんだ、と坂口は口の中の物を飛ばしながら叫ぶ。
「や、やめろ! きったねえな」
「今朝、学校の前で遊説してた公民党の奴、見たか? 『私は嘘をつきません』って二十三回も言ってたんだぜ」
「あっそう。とにかく落ち着けよ」
 伊藤は、今にも立ち上がらんばかりに興奮して話す坂口をなだめる。坂口は紅茶で食べ物を一気に流し込んだ。
「何で二十三回って数えてるんだよ」
「数えてなんかないよ。俺は嘘つきだからな」
「お前、それが言いたかっただけだろ」
「違う! だから俺が言いたいのは、今の議員はみんな死んでるってことだよ」
「死んでるって何だよ」
 普通なら、“腐ってる”と言うのが自然ではないか。
「ああ、死んでる。いいか、厳密に『行動』っていうのを定義すると、『死人にはできないこと』っていうらしいんだ」
「定義の材料にされるなんて、死人も哀れだな」
「つまり『嘘をつかない』ってのは行動にならない。死人でも出来る」
 確かに、と伊藤は納得する。なんだかんだ言って、やはり坂口は馬鹿ではないということをつくづく思わされてしまう。
「死人でも出来ることを二十三回も言ったって、しょうもないと思わないか? そんな奴ら、死人と同じようなもんだろ」
「同じにされちゃあ、死人に失礼だ」
「それに引き換え『嘘をつく』ってのはちゃんとした行動だ」
「どうかな。死人も嘘をつけないとは限らない」
 伊藤は、敢えて的を外した突っ込みを入れてみる。それというのも、突っ込む隙が無いからなのだが。
「だったらお前、死んだ後に嘘をついてみろよ。『実は生きてます』ってな」
「そんなブラックなジョークはお前にこそ相応しい」
「まあとにかくさ、そんな死人みたいな議員どもより、死人には出来ない『嘘をつく』ことが出来る俺のほうがよっぽど信頼できると思わないか」
 伊藤は呆れて息を吐き出した。
「嘘をつく人間は信頼できない」
「生死不明の議員よりは信頼できるだろ」
「だからといって、もし総理大臣が嘘つきだったら、国は滅びるだろ」
 わかってないな、と坂口は呆れ顔になる。むしろ伊藤のほうがそうしたいくらいだというのに。
「権力者が嘘つきだったら、その国はどうなるか」
「だから滅ぶだろ」
「滅びないさ。アメリカも日本も中国も、みんな生き残ってるじゃないか」
「? 大統領も首相も国家主席もみんな嘘つきだって言うのか」
 伊藤は坂口の言っている意味が分からず、訝った。
「まさにその通り」
「嘘だろ」
「今回は嘘じゃないっ!」
「何でそうなるんだよ」
「外交でも何でも嘘をつかなきゃ、やってられないだろ。どんなに仲の悪い国相手でも笑顔で握手して、戦時にはデタラメの報道をさせる。そうでもしないと国はすぐ滅ぶ。嘘も方便ってやつだ」
 出た、“嘘も方便”。『俺は嘘つきだ』と同じくらい使用頻度の高い言葉だ。伊藤はそんなことを考えながらも、坂口の話に耳を傾けていた。
「嘘つきが先導する国の方が、むしろ長生きするものさ。ちょっと極端だが、たとえばアメリカで株価が大暴落するとする。だがその事実を隠しておけば、日本の株価はそれほど下がらない。貿易関係の会社に影響が出るくらいだ」
「そんなの、むちゃくちゃだ」
「むちゃくちゃじゃない。俺が首相だったら、そうするかもな」
 株価の話はどう考えてもむちゃくちゃだが、正直なところ、伊藤は感心していた。頭がいいと、こうも面白い方へ考えが向くのか。
 伊藤は直感で、こいつは総理大臣になれると思った。まさか十年後にそれが現実になるとは夢にも思わなかったが。
 
 *
 
 伊藤は苦笑いした。
「まさか、最も当たって欲しくなかった予感が当たっちまうとはなあ」
「予感?」
「いや、こっちの話だよ。じゃあ、陽一。陳腐なセリフだけど、日本を頼んだぜ」
「任せろ。俺は嘘つきだからな」
 坂口は決めセリフを残して電話を切った。
 
 
 
 
 
 困難は、首相就任直後に訪れた。
 日経平均株価が急騰し始めたのだ。経済の専門家によると、バブルの兆候が見られると言う。坂口は極秘で閣僚会議を開き、対策を検討した。
 まず出たのが、『バブル経済の予兆だ』ということを報道させて良いか、ということだった。バブル崩壊には何らかのきっかけが必要である。バブル報道がそのきっかけになりかねない。
 一方で、まだ『バブル』が小さいうちに敢えて崩壊させ、景気後退を最小限に抑えるために報道させたほうが良い、という意見も出た。
「報道規制は言論の弾圧となるのでは?」
 後者の意見側の閣僚が声を上げる。
「バブル崩壊を防ぐ為にはやむをえないでしょう」
「防ぐのではなく、先延ばしにするだけではないか」
 と、ここで官房長官が、うつむいて考え込む坂口の方へ視線を向けた。
「総理はどうお考えになりますか」
 坂口はゆっくりと顔を上げる。そして、一言一言吟味するように、低い声を出した。
「では妥協案を採ろう」
「妥協案?」
「まず、報道規制をする。そしてバブル経済の事実を隠したまま、秘密裏に景気対策を行なう」
「国民に対して嘘をつくのですか!」
 右隣に座っていた、報道推進派の閣僚が憤慨する。
「嘘とはずいぶん人聞きの悪い。情報を公開しないだけだ」
 坂口のこの言葉が合図となったように、会議はお開きとなった。
 臨時会議室から出たところで、坂口は民政党の幹事長・大野に声を掛けられた。大野は坂口より二十歳ほど年上で、坂口の前に総裁を務めていた大ベテランだった。
「よう、坂口。大変なことになったな」
 大野が歩き出したので、坂口も続く。いつもは押し寄せる報道陣をかき分けながら進むのだが、極秘の今回は誰も居らず、スムースに歩けた。
「結果はどうなった」
「私が決めました。報道規制をしつつ、裏で対策を進めます」
「ふーん」
 大野は薄くなった自分の髪を撫でつける。
「大衆に嘘を突き通すのかい」
 坂口は苦笑いし、うつむいて足元を見つめる。
「さっき、閣僚にも同じようなことを言われましたよ」
「何て答えた」
「人聞きが悪いな、と」
「常套の逃亡手段だね」
 政治家には曖昧表現や責任回避の祭の常套文句などが不可欠だ。坂口は当然嫌悪したが、政治家を続けるにはやむをえないと説得され、渋々暗記した覚えがある。
「国民に嘘をつくんだろ。覚悟は出来てるのか」
「私は嘘つきですから」
「詐欺師だ」
「ペテン師です」
「妄言者」
「ほら吹き」
「ほら吹きはちょっと違うんじゃねぇか」
「そうですね」
 坂口は、自分で言って噴き出してしまった。大野幹事長と話すと、良い意味でどうも調子が狂ってしまう。
「俺は偉そうに口出しできねえけど、政治に関してはお前より詳しいつもりだ。困ったら訊きに来い」
「ありがとうございます」
「あくまで助言だからな。責任は持てねえけどよ」
 じゃあな、と右手をブラブラ振って、幹事長は去っていった。
 
 
 
 極秘会議後の一週間で、平均株価は一万八〇〇〇円台を突破した。この異常なまでの高騰に、報道各社がついに動き出した。しかし決議どおり、政府の根回しで、各社に報道規制がなされた。当然、抗議が殺到する。
「総理、抗議の電話でパンク状態になっています」
 官房長官が泣きそうな顔で報告してくる。
「耐えるしかない。そんなことより、対策は進んでいるのか?」
「財務省と日銀の間で、現在検討中とのコトです」
「くれぐれも極秘に、かつ極力早急に実施しろと伝えてくれ」
 
 
 報道各社は、抗議が黙殺されたことに対し、徹底的な坂口批判で報復した。
『公民党と大して変わらない無意味で遅い政策』
『マスコミ嫌いへの急変のウラには、何かスキャンダルか』
『人気は上辺だけ? 本当に実力が伴っているのか』
 


「総理、根も葉もない噂が飛び交っていますぞ」
 たまりかねた閣僚の一人が、坂口の元へ駆け寄る。
「最初から覚悟していたことだ。そんなことより早く対策を――」
「総理、大変申し上げにくいのですが、総理は報道の力をご存じないようですな」
 坂口より大分年上の中河というこの閣僚は、まるで手に負えない上司を扱うように話し始めた。
「何?」
「マスコミに潰された総理大臣は何人も居ます。先代の公民党首相も、マスコミに潰されたも同然ではないですか。結果、政権を失いました」
「中河大臣、何が言いたい?」
 ですから、と中河は悪びれる様子もなく言い放つ。
「これ以上マスコミに叩かれると、総理の辞任どころではなく、民政党が野党へ逆戻りする可能性があるということです」
「中河!」
 坂口は思わず叫んでいた。格下とはいえ年上の人物を呼び捨てにするのはさすがに抵抗を感じたが、構わず怒鳴り散らす。
「君は国の命運より、党の命運を先に憂慮するというのか!」
「い、いえ、そういうわけでは――しかし、公民党よりは我々に任せた方が得策で、国の為にもなるじゃないですか」
 ひるみながら弁解する。常套の逃げ文句だ。坂口はいっそう腹立たしくなった。必死で心を落ち着かせ、穏やかな声を作る。
「……中河大臣、たとえそのような意味でも、軽率な発言は今後慎んでいただきたい。せっかく我々を選んでいただいた国民を裏切るようなマネだけは絶対にいけない」
 そこで、中河の堪忍袋の緒も切れたようだ。真っ赤な顔を近づけ、聞き苦しい銅鑼声で反論する。
「総理の方こそ、国民を裏切り、嘘をついているではありませんか」
「何だと」
「私は総理の案に反対しましたよ。私の言うとおりにしておけば、こんな批判は浴びずに済んだのです」
 言われて、坂口は思い出した。確かこの経産省大臣は、あのとき報道推進派で声を上げていた閣僚だ。あの時は、バブルを小さいうちに破裂させた方がよい、と言う意味で発言しているのだと思った。しかし、本心は別だったのだ。
「やはり貴方の本心は『批判を浴びたくない。つまり野党になりたくない』ということではないか」
 中河は再び一瞬ひるんだが、今度は開き直ったように言い返してきた。
「……そうですよ。与党として当然の感情ではないですか」
「中河大臣、君には然るべき措置を以って臨む必要があるようだ。もう君と話す時間も意義も無い。速やかに下がりたまえ」
 中河は何かブツブツ呟いていたが、指示に従い去って行った。だが、その目に溢れる憎しみの色を、坂口は見逃さなかった。厄介なことになりそうだ。早く事を進めなければならない。
 
 
 日増しに坂口批判は激しくなり、その動きに乗せられて、九〇パーセント以上だった内閣支持率は、三ヵ月で六〇パーセントまで急降下した。
 そのウラでは、日銀による金融の引き締め政策が行なわれた。前回のバブルでは極端な引き締めを行なって深刻な不況をもたらした。その教訓を活かし、今回は徐々に引き締めを強くしていく政策を採った。バブルの事実に気づいていない人々は訝ったが、それでも過熱した景気は徐々に後退を始めていた。バブルが“崩壊”する前に“解消”したのだ。坂口も含め閣僚らは一安心した。
 
 ところが、すぐさま次なる困難が訪れた。
 バブルの事実を知らない国民は『政府の政策で景気が後退した』と誤解し、一挙に内閣支持率の低下が加速したのだ。今度は、極秘の党内会議が開かれる。
「『実はバブル経済だった』と報道させるべきだ」
「だが、その事実を今まで隠していたことを国民が知れば、むしろ逆効果では?」
「それに、マスコミの報復で、事実を曲げられて報道されるかもしれない」
 侃々諤々の意見交換となり、会議は紛糾寸前だった。
「醜い……」
 坂口は小さく呟いていた。国のことより、党のことを熱心に議論する議員たちが醜くて仕方がなかった。馬鹿やろう、と叫びたい衝動を抑えていると、隣に座っていた、これまで無言だった大野幹事長が話しかけてきた。
「坂口、何暗い顔してるんだ」
「大野さん……」
「俺もよ、こういうやつらにはウンザリしてるんだ。だが、党員数日本一の民政党だぜ。まともな人間だっているだろうが」
 坂口は顔を上げ、会議室内を見つめた。自分と同じような顔をしている者が、ここに居る党員たちの中にも、少なからず居るではないか。彼らと、不毛な議論をしている者たち交互にを見ているうちに、坂口はある決意を固めた。
「大野さん」
「どうだ、骨のある奴は見つかっただろ?」
「私、離党しようと思うんです」
 急に声をひそめ、坂口はそう告げた。大野は目を丸くするかと思いきや、至極落ち着いた表情を崩さなかった。
「そうか」
「驚かないんですか」
「まあな。お前なら、いつかそう言い出すかもしれないと前から思ってたよ。で、いつ頃だい?」
「支持率が三〇パーセントを割ったら、その時点で総辞職して離党します。無責任だということは十分承知ですが、もうどうにも耐えられません。新党を作ります。そのとき、民政党の党員からも引き抜くかもしれません」
「今、四一パーセントだから、あと二ヶ月くらいかねえ。まあ言っておくが、俺は止めもしないし支援もしないぜ。だが、もしお前の党に入りたいやつらがいても、俺は止めないから安心しろ」
「わかりました」
「党内では未だにお前の人気も高い。お前が新党を作ったら、民政党も終わりかもな」
「入党できるのは私の眼鏡に適った人だけですから」
「そうか、じゃあ大丈夫だな」
 そう言って、大野はガハハと笑った。
 
 やがて会議が終了し、坂口は立ち上がる。大野の話を聞いて、少しは気分が軽くなった気がした。
「なあ、坂口」
 再び、大野に呼び止められる。
「はい、大野さん」
「やるからには、中途半端じゃ駄目だ。さっきは支援もしないと言ったが、俺が骨のある奴を紹介してやる。だから、しっかりやれよ」
「ありがとうございます」
 心の底からこう言ったのは、初めて議員になったとき以来だった。言葉では言い尽くせない感謝の念が浮かぶ。
「坂口」
「はい」
「じゃあな」
 そう言って、大野は背を向けた。心なしか、肩が震えているようにも見える。泣いているのだろうか。自分が離党すると言ったからかもしれない。坂口は、嬉しいような申し訳ないような不思議な感覚に包まれた。
 
 
 
 
 
 一ヶ月半後の朝刊では、内閣支持率が二八パーセントにまで低下、と報道されていた。坂口は決意を固めた。未だに独身だ。失敗したからと言って、悲しませる人は誰も居ない。明日の記者会見で総辞職を発表しよう。
 
「明日、私は総辞職しようと思っている」
 首相公邸に集めた閣僚たちの前で、坂口はそう言い切った。十四人の閣僚は、全員があんぐりと口を開け、言葉を失っていた。
「君たちには本当に申し訳ないが、この決意は決して動かないだろう。短い間だったが、本当にご苦労だった」
「待ってください総理! 一体どうして? 何故辞めるのですか」
 官房長官が立ち上がり、つばを飛ばしながら必死で訊ねる。
「何故かって」
 坂口は、左端に座っている経産省大臣に一瞥をくれた。
「大変言いにくいことなのだが、私は失望したのだ。君たち全員にではないがね。それに、支持率もどんどん下がっている。私がこれ以上、総理大臣という重要なポストに居座り続ける理由はもうない」
「しかし……」
「官房長官、あなたは十四人の中でも特に尽力してくれた。後のことは大野幹事長に頼んでおこう」
 坂口は官房長官の肩をポンと叩くと、悲しげな笑みを浮かべた。それでも彼は納得しきれない様子で、尚も質問する。
「ですが総理、問題は未だ山積しています。それに、辞職された後、総理はどうなさるのです」
「それらは貴方が知る必要の無いことだ。後は頼む」
 そう言い残して、坂口は部屋を出ようと扉の方へ歩き出した。ふと足を止め、呆然と立ち尽くす官房長官を振り返る。
「官房長官、今夜、もう一度公邸に来てくれ」
 
 
 
 その夜、公邸には坂口と大野、それに官房長官が集まり、静かな晩餐会が開かれていた。
「官房長官、いや鈴木さん。ここでは無礼講です。私のことも坂口と呼んでください」
 鈴木官房長官は、坂口より一〇歳ほど年上だ。閣僚全てが坂口より年上だが、一番年が近かったのは彼だった。
「め、滅相もないことを」
「いいんです。どうせ、明後日には私はただの三八歳ですから」
「総理……」
「では総理大臣として命じましょう。私のことは坂口と呼んでください」
「……。わ、わかりました」
 鈴木は眼鏡の位置を直し、心底ばつが悪そうにワインを少し口に含んだ。
「では、さ、坂口。辞めた後はどうするつもりなんですか」
「もう大野さんには言ってあるんですが、離党して新党を作るつもりです」
「離党に、し、新党!?」
 ご冗談でしょう、と鈴木は肩をすくめた。
「本気です」
「馬鹿な。何故です?」
「だから言ったじゃありませんか。失望したんですよ」
 坂口は酒に弱かった。少し飲んだだけでも酔っ払ってしまう。
「特にあの男、中河とかいう身勝手な老いぼれにです」
「経産省大臣にですか」
「そう。あの男は……」
 饒舌になった坂口は一方的に話し続けた。鈴木も大野もほとんど無言で彼の話に聞き入っていた。やがて坂口の愚痴が終わって政治の話になると、二人も積極的に話し始めるようになった。終わった頃には、夜十一時を回っていた。
 
 帰る時刻になると、坂口は二人を公邸の外まで見送っていった。だが鈴木が帰った後で、大野は残って坂口に声を掛けた。
「なあ坂口、話がある。二人だけになりたい」
「わかりました。じゃあ秘書官達を下がらせて――」
「いや、外の方が都合がいいんだ。頼む」
 秘書官たちは渋ったが、三〇分くらいで戻る、と大野に説得され、結局は引き下がった。坂口は促され、大野の乗ってきた車に乗り込む。
「話は五分で済むんだ」
「何についてですか?」
「お前の離党についてだよ」
 
 
 
 やがて、公邸から五キロほど走ったところにある、人気のない埠頭に辿り着く。
「ここだ」
「こんなところですか?」
「ああ、そうさ」
 大野がそう言った直後、腹部に鋭い痛みが走った。
 咄嗟に手をやると、その手にも痛みが走る。見ると、暗い車内の中でもくっきりと見えるほどに赤い血が付いていた。
「お、大野さん……?」
「知ってるか、坂口。『自己言及のパラドックス』ってのをよ」
 口から血が溢れ出る。しかし、痛みで意識はまだハッキリしていた。
「『私は嘘つきだ』っていう言葉は矛盾してるんだ。『私は嘘つきだ』ってことが本当なら、『私』は本当のことを言ってるから正直者になっちまう。逆に『私は嘘つき』ってのが嘘なら、嘘の嘘でやっぱり正直者になっちまう」
 大野はグッと顔を近づけた。
「お前は嘘つきなんだろう? 嘘つきは何かとつけて矛盾するんだ。この世に矛盾する者は要らない。むしろ迷惑だ」
 坂口は運転手の方を見やる。運転手はバックミラー越しにその様子を平然と眺めていた。
 こいつもグルか。
「坂口。お前を殺すのは党の意志だ。その理由は訊くまでもあるまい。だがな、実は俺もお前を殺したかったんだよ。でなきゃ、こんな危険な役は務めねえからな」
 大野さんが俺を殺したがっていた!? 坂口は混乱して、眼を大きく見開く。
「俺から総裁の地位を奪ったのは誰だ? 煙たいマニフェストを勝手に掲げて党員を減らしたのは誰だと思ってやがる。みんなお前だ。お前のせいだ!」
 小さいながらも怒りに震える声で、大野は尚もまくし立てる。
「そのうえお前は、離党するなどと言って俺の民政党を壊そうとしやがる。本当はな、俺がお前に離党を勧めるつもりだったのさ。だがお前は勝手に決心してくれた。手間が省けたぜ」
 あのとき驚ろかなかった本当の理由は、それだったのか――。そう言えば、別れ際、大野の方は震えていた。あれが泣いているのではなく、笑いをこらえていたのだとしたら――。
「う、嘘だ……」
 坂口は声を絞り出す。ナイフが栓になって、腹からの出血は少ない。
「嘘じゃねえよ。俺は正直者だからな」
 そう言って、大野はガハハと笑う。
「お前にはこの後、石灰をぶちまけて白骨にしてやる。後は車ごと海に飛び込ませてやるさ。この先一生行方不明扱いだな」
 坂口は、どうしようもない怒りと悔しさが込み上げて来た。ふと、ナイフを見る。これを引き抜けば恐らく自分は死ぬだろう。しかし、今なら油断している大野からナイフを奪い、相撃ちに持ち込めるかもしれない。
 隙を見計らってナイフに手を掛けると、渾身の力で前に押し出す。半分まで抜けた。だが、腹に痛みが走り、血を吐いただけで、ナイフはそれ以上動かなくなった。目の前で、大野が尚も笑い続けている。
「バカめ。映画みたいな展開を予想してるようだがな、ここは本当の世界なんだ。映画みたいな嘘の世界とは違うんだよ」
 畜生、と坂口は派手に毒づいた。それを見て再び大野が高笑いする。
「さあて坂口、俺はそろそろ逃げなきゃいけねえ。最後に何か言うことはないか」
 もはや万策尽きた。坂口は諦める。
 諦めた後はどうする? チャンスをくれたんだ。何か言ってやろう。そうだ。どうせなら、こいつの耳に残るどでかいことを言ってやろう。
 だがいかんせん、朦朧とする意識の中では思いつかない。今までの思い出が、走馬灯のように頭の中を駆け巡っている。
「どうした、何も言わないのか」
 遠くで大野の声がする。坂口は無意識に言葉を発していた。
「『死人が嘘をつけないとは限らない』」
「あん?」
 高校時代の記憶が蘇ってきた。
「死んだ後に嘘をついてやるよ。『実は生きてます』ってな」
「なんだと」
 馬鹿にするな、と大野は一気にナイフを引き抜く。途端、どす黒い血が一気に坂口の体から抜けていった。坂口は痛みに顔を歪ませることもなく、唇の端をぴくぴくと動かして笑う。
「何でかって?」
 坂口は、この世で最後の息を吐き出すと同時に言った。
「俺は嘘つきだからな」
 
 
 
 
 
              END

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