小説『戦国御伽草子』
作者:50まい()

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そっとその頬に触れた。体温が戻ってきている。



眠っている兄上。あまりにも静かで、時折呼吸を確かめるために口の前に手を翳してみたりする。



思い出すのは、ぞっとするように冷たい腕。



兄上が倒れたのはあたしのせいだ。



二人を助けたかったからとはいえ、兄上に無理をさせてしまった。



姉上様も、義母上も、兄上のおかげで一命を取り留めた。義母上はだいぶ重症だけど…でも安静にしてちゃんと薬湯を飲んでいれば命は大丈夫と言われた。それもこれも全部兄上のおかげだ。



目の前で昏々と眠る綺麗な面を見詰める。



兄上、このまま、目が覚めないなんてことないよね、大丈夫だよね…。



「失礼いたします」



「…」



かけられた声に返事をしなかったけれど、遠慮がちに襖があいた。



侍女の小萩(こはぎ)の顔がのぞく。



「姫様、少々よろしいでしょうか?」



「うん…なに?」



「実は…今、佐々の由良(ゆら)姫様がいらっしゃっていて、至急姫様にお会いしたいと…」



「由良が」



正直、今は知り合いに会う気分でもないけれど、ここにいても何ができるわけじゃない。



あたしは立ち上がった。



「行くよ」



「ご案内いたします」



「いいよ。どこにいるの?」



「それが…土間でございます」



「え?玄関じゃん。客間に通さなかったの?」



「はい。私(わたくし)どももお通ししようとしましたが、由良姫様がここでいい、とにかくはやく瑠螺蔚(るらい)様をお呼びしてほしいと、そればかりで…」



困った顔で小萩は言った。



こっちも一大事だったけど、まさか佐々家もなにか起こってるんじゃ…。



あたしは緊張すると急いで土間に向かった。



「由良!」



「瑠螺蔚さま!」



あたしが駆け寄ると、由良はあたしの手を傷一つない柔らかな手でがっしりと掴んだ。



「お待ちしていました。はやくいらしてください!」



そう言ってぐいぐいとあたしを引っ張っていこうとする。



「由良、どうしたの!?何かあったの?」



「お話は向かいながらでもよろしいですか?」



「いいけど…そんなに緊急なの?」



「はい」



あたしは由良に手をひかれながら佐々家に向かった。



「で、何があったの。もしかして…不審な人が暴れて怪我人が出たとか…」



発六郎(はつろくろう)が浮かんであたしはそう言ったのだけれど、由良はいいえと首を振った。



「瑠螺蔚さま、不躾なことをお伺いするようですが…兄上様と何かございましたか?」



「へ?高彬(たかあきら)と?ないわよ、別に…」



言いながら待てよ、と思った。



発六郎に追い詰められたあたしは野洲(やす)川に飛び込んで、それをどうやら高彬が助けてくれたらしい。あの時あたし自分のことしか目に入っていなかったけど、よくよく思い出してみれば高彬もあたしと同じようにずぶ濡れだった。



緊急時だったから仕方ないと言い訳させてほしいけど、あたしはそんな高彬に礼を言うでもなく兄上のところへ翔(と)んで…。



あたしはすっと血の気が引いた。



もしかして、高彬に見られた…?



あたしはその時無我夢中で、高彬なんて気にしてなかった。けど普通に考えて、あたしがいきなり走り出したら、後を追うわ、よね。



「た、高彬が何か言ってたの…?」



「いいえ。兄上様は何もおっしゃってくださらないのですけれど…」



由良は一瞬口ごもった。



「ですが…瑠螺蔚様の事だと思うのです。あんなに怖い兄上様は初めてで、私、どうしたらいいかわからなくて…」



「怖い?高彬が?」



高彬と、怖いというイメージが結びつかない。



しかも、妹を怯えさせるぐらいに顔や態度に出してるなんて、超理性先行型の高彬らしくない。



なにかあったのか。もしくは、あたしが消えるのを見てて…?でもそれじゃあなんで怒っているのかが分からない。怯えるとか、恐怖に駆られるとかならまだしも。



そんな話をしているうちに佐々家に着いた。



高彬は、自分の部屋の前の縁にいた。



片足を立ててその上に腕を乗せて座っていた。



「兄上様…」



由良がその横顔におそるおそる声をかけた。



「由良、今は誰とも会いたくないと」



こっちを向いた高彬の声が詰まった。あたしを見留めた瞳が大きく見開かれる。



「由良!」



それはあたしですら思わずびくっとするぐらいの大声だった。あの、高彬が妹の由良に向かって怒鳴るなんて思わなくて、あたしは驚いた。



「ごっ、ごめんなさい…でも、でも私…」



怒鳴られた由良は、かたかたと震えて、涙を零した。



あたしは由良の肩を慰めるつもりで優しく抱き寄せると、きっと高彬を睨みつけた。



「高彬!何があったか知らないけど、怒鳴ることないでしょ!?」



「瑠螺蔚さんは口を出さないでくれ」



高彬は打って変わった低い声で言った。



けどそんなの、怖くないんだからね!



「出すわよ!どんな理由があったとしても、大の男がこんなか弱い女の子泣かせるって、あんた恥ずかしくないの!?」



「瑠螺蔚様!」



隣の由良がいきなり声をあげた。



ん?と首を向けると、由良は涙を零しながらも首を振った。



「瑠螺蔚様、私は大丈夫です。ですから、お願いですから、兄上様をお責めにならないでください。お願いいたします」



そう言って更に泣いた。



「…」



由良が優しいのはわかるけれど、そう言われても高彬に非難は向く。



「由良、案内(あない)ありがとう。もういいから、室に戻って」



「はい」



あたしがそう言うと、由良は涙を拭い拭いさがっていった。



「高彬」



高彬はあたしを見ずに顔を背けていた。表情は怒りと言うか、不機嫌丸出しだ。



でもあたしだって怒ってるんだからね!



「…体調は、大丈夫なの」



ぶっきらぼうに高彬は言った。



「体調?」



高彬がそんなだから、あたしも自然とぞんざいな声になるのは仕方がないと思う。



大体、体調って何よ?あたし別に風邪ひいてるわけでもなんでもないんだけど。



「川に飛び込んだろう」



「それは…!」



あたしはカッとした。



こっちの事情知らないのはしょうがないけど、好きで飛び込んだわけじゃないからね、あほんたれ!



昔でも野洲(やす)川なんて流れが急で、自分から飛び込むなんてしてないのにこんな大きくなって川遊びなんてするわけないでしょ!



「…体調は大丈夫です。気遣ってくれてありがとうございましたっ!でもね、あれは」



力み勇んで本当のことを言おうとしたけどふと思いとどまった。



うちに忍び込んだ奴と短刀で戦って逃げ場なくて川に飛び込んじゃった〜なんて本当のこと言ったら、また真面目一本な高彬のお説教が延々と続くのでは…。終わったことなのに無駄に心配させるのも嫌だし。



それだったら誤解されてるぐらいで、まぁいっか?



「あれは、何」



「あれは、あれは…えーと落ちちゃっただけなのよ。飛び込んだなんて言われると心外だわ」



「ふうん?僕には瑠螺蔚さんが自分の足で飛び込んでるように見えたけどね?」



「あんた、見てたの!?」



「見てなきゃ助けられないよ」



「なによ!見てたのにそんな嫌味みたいにちくちく言ってんの!?あれはしょうがないじゃんか!あたしはあんたみたいに鍛えてるわけじゃないし、他にどうすればよかったのよ!むしろあそこまで持ったのを褒めてほしいわよ」



「…」



高彬がこっちを向いた。眉根が寄って、渋い顔をしている。



あまりにもじっと見てくるもんだから、あたしは思わず一歩引いた。



「え、な、なに…」



「今の話、どういうこと?」



「え…ど、どういうことって…見てたんでしょ…」



いやな予感がしてつっつかえつっかえ言うと、高彬はあたしの腕をさっと掴んだ。



「僕が見てたのは、瑠螺蔚さんが川に飛び込むその瞬間だけだけど。その後は慌てて瑠螺蔚さんを見失わないように追ったから周りは見ていないし。鍛えるとか、持つとか、どういうこと?」



「あ、えーっと…」



あたしはもごもごと口籠った。



や、やばい…自分で墓穴掘っちゃった…。



上手い言い訳も思い浮かばず黙っていると、高彬は掴んだあたしの腕にぐっと力を入れた。



「何したの」



「うちに、不審者が忍び込んできてて、戦ったんだけど、追い詰められちゃって川に飛び込んだの」



思いきって言うと、高彬は声も出ないようだった。



本当に何も知らなかったらしい。



佐々家は隣なのにあれだけの騒ぎが伝わってないとは思えないから、高彬が聞いていないか、由良あたりが気を利かせて伝えてないか、ね。



痛いわよ、なんて別に痛くもないけど手を振り払ったら、今度は両肩をがっしり掴まれた。



って、いたい、痛い!本当に痛い!普段はなよっとしていて、小さい頃なんて泣き虫の鼻たれだった高彬にこんな力があると思わなくてあたしはびっくりした。指の跡が残るんじゃないかと思うぐらいだ。



「瑠螺蔚さん怪我は!?」



「痛いわよ、離して!あたしはこの通り無事だから」



そう言うと、両肩にかかった手の力が緩んだ。



ほっとしたと同時に、高彬に抱きしめられた。



「よかった…!」



「…大袈裟ね」



そうは言ったけども、高彬の安堵が伝わってきてなんだかむず痒くなる。



高彬は川に落ちたあたしを助けてくれて…じゃなかったら本当に死んでたかもしれないし…。



その礼を言っていないことに気づいてあたしは高彬にそっと声をかけた。



「高彬、言うのが遅くなったけど、助けてくれて本当にありがとう」



「いいんだ。瑠螺蔚さんが無事なら、いいんだ…」



高彬の優しさにじんとした。そうよ、高彬は昔から、二言目には『瑠螺蔚さん』で、あたしの後ろばっかり付いてきて、泣き虫で、でもいつも優しかった。



「あんた、どうしてさっきはあんなにぴりぴりしてたのよ。あたしになんとかできること?言ってよ。言うだけでも楽になるかもしれないし、それにあんたがあたしを助けてくれたみたいに、あたしだってできるだけあんたの力になりたいと思ってるのよ。」



さっきまでと違って、あたしも大分優しい気持ちになって柔らかく言った。



「…本当に、瑠螺蔚さんにはかなわないよ」



高彬はいきなり笑いだした。



ちょっと、大丈夫かしら。



「もう、いいんだ。恥ずかしいけれど、勝手に不機嫌になって勝手に八つ当たりしてた。由良には後でちゃんと謝っておくし、礼も言っておかなきゃ。」



「え、結局原因は何だったの?」



「ううん、こうやって瑠螺蔚さんが僕のところへ来てくれたから、もういいんだ」



どうやら高彬は言いたくないみたいだし、下手に掘り返してまた不機嫌になられても困るからあたしは何も言わないでいた。



高彬の手が回されたあたしの腰の後ろで組まれて、そのまま引き寄せられた。肩に高彬の頭がのっかって、鎖骨の辺りに呼気があたる。



あたしはいきなり居心地が悪くなった。



なんか、これってちょっと…へんな雰囲気というか…いい雰囲気と言うか…。いや高彬が相手じゃ色っぽいも何もないけれど!



「ちょっと、もう大丈夫でしょ?離しなさいよ。変なとこ触ったら承知しないからね」



「いやだ」



あたしは耳を疑った。



それ…は離したくない、にかかる「いやだ」よね!?変なとこ触るな、にかかる「いやだ」だったらぶっ飛ばすわよ!?



「離れたかったら、離れて。できればだけど」



「はぁ?あんた頭イカレたんじゃないの?」



そう言った途端、強く抱きしめられた。



あたしはカッと顔が熱くなって、思いっきり藻掻(もが)いた。



今まで何とも思ってなかったけど、強く引き寄せられたせいで、ひょろっこいと思っていたのに思ったよりしっかりしている胸板や、あたしが思いっきり暴れてもびくともしない体なんかをしっかり感じちゃって混乱していた。



「離してよ!離しなさい」



痛いのか痛くないのか、おくびにも出さずに高彬はあたしの両腕を取った。



「兄上!」



「兄上、ね…」



あたしが思わず言うと、高彬がぼそりと低い声で呟いた。



「兄上兄上兄上あにうえ…瑠螺蔚さんはいつもそうだ!何かあると俊成(としなり)殿に頼って…。でも、僕ももう瑠螺蔚さんに庇ってもらうだけの童(わらわ)じゃないよ。こうして、瑠螺蔚さんを守ることもできるんだ。好きだ、瑠螺蔚さん。ずっと好きだったんだ…」



あたしは思わず動きを止めた。



動きだけじゃなくて思考も停止。



高彬は恥ずかしそうに少し笑って言った。



「一生大事にするから、僕の妻になってください」

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