第九話:確かな幸せがあった頃
一言で言うならそれは、ありふれた日常だった。
何も特別なことなどはない。
あまりにも普通で、そのせいで誰しもが日々の中で見落としてしまいそうな些細な光景。
それでもそこには、確かにあった。
欲しかったものは、全て揃っていた。
例えそれが、そう遠くない未来に束の間の幸せだったと思えるようなものでも。
確かに、幸せだった。
幸せだったんだ。
あの日までは……。
歩には父親がいなかった。
物心つく前に、不治の病でこの世を去ってしまったからだ。
だから歩は、幼少時代を母親と二人で過ごしていた。
父親の顔は色褪せた写真の中でしか見たことはなかったが、幼いながらにも不思議と寂しさはあまり感じなかった。
それというのも、母親である渚(なぎさ)がいつも一緒にいてくれたことがあってのことだ。
水片家はごく普通の一般家庭だった。
特別裕福というわけでもないが、普通に暮らすことにこれといった不便はなかった。
父親の宏一郎(こういちろう)亡き後は、渚の実家の近くへと引越し、そこで新しい生活が始まっていた。
生活環境はおおむね良好。
当時四歳だった歩もすくすくと育ち、これといった問題もなく他人の目から見れば間違いなく幸せな家庭の風景を描いていた。
あるとき、渚は思った。
父親がおらず片親であることは、この先の歩の人生においていつか必ず一つの壁となって立ち塞がってしまうことがあるかもしれないと。
そのとき、最愛の我が子はどういった行動に出るのだろうか。
打ちひしがれ、折れてしまうのか。
それとも、少しずつでも全てを受け入れ、前に向かって歩き出してくれるのか。
幼い歩にそんな問答をしてみたところで、正しい答えが返ってこないことなんて分かってる。
だがそれでも、渚は問わずにはいられなかった。
一度だけ、歩に聞いてみたことがある。
「ねぇ、歩」
「なに、おかあさん?」
「歩は……」
言いかけて、早くも決心が鈍りそうになった。
こんな幼い子供に、何かとてつもない重荷を背負わせてしまうようで、気が引けてしまったのだ。
だがそれでも、渚は意を決して訊ねた。
どんな答えだろうと、しっかりと受け止めた上で共に歩むと誓って。
「歩は、お父さんがいなくて……寂しい?」
「うーん……」
腕の中の歩はすぐには答えなかった。
質問が難しすぎたのかもしれないし、よく分かっていなかったからなのかもしれない。
が、一拍の間を置いて歩は答えた。
「ちょっと、さびしい」
幼さゆえに、しかし真っ直ぐな瞳でそう答えた。
「……そっか」
分かっていた答えとはいえ、渚はわずかに顔をしかめた。
胸の奥にちくりとした小さな痛みが走るが、それでも構いはしない。
「でも」
が、幼い歩の言葉はそこではまだ終わっていなかった。
腕の中の歩は渚へと振り返ると、微笑みながら続ける。
「おかあさんがいるから、へいきだよ。さびしくないよ」
そのたった一言が、胸の奥にあった消えない痛みを全て吹き飛ばしてくれた気がした。
気が付いたとき、渚はうっすらとだが涙を流していた。
理由は大体分かっている。
分かってはいるが、この流れ出る感情を押しとどめることなんてできない。
とてもじゃないが、できそうにもない。
「どうしたの、おかあさん?」
突然目の前で泣き出した渚を前に、幼い歩は戸惑った。
幼い歩に何となく分かったことは、きっとどこかが痛いから泣いているんだという、それだけのことだった。
その小さな手が、渚の頬に触れる。
一筋だけ伝った涙の跡を、そっと拭っていく。
それだけで、渚は腕の中の歩を強く強く、よりいっそう強く抱きしめた。
「おかあさん?」
幼い歩には、よく分からなかった。
ただ一つ分かったのは、渚は泣いているのに笑っているという、それだけのことだった。
「……ごめんね。ありがとう、歩」
抱かれた腕の中、渚は何度となくその言葉を繰り返していた。
幼い歩には、その言葉は難しくて意味が分からないものだった。
ごめんねとありがとう。
正反対の意味であるはずの言葉が、このときはどういうわけかひどく優しい音色で響いていた。
強く抱きしめられた渚の腕は少し苦しかったが、いつも以上に温かく、優しさに満ち溢れていた。
守っていこうと、渚は強く思った。
この子は私の宝物だ。
絶対に、もう二度と寂しい思いなんてさせるものかと。
腕の中にある小さな鼓動を確かに感じながら、強く強く誓った。
……だがそれは、夢の時間。
幸せな夢だろうと悪夢だろうと、夢の時間はいつか必ず終わりを告げる。
そして、運命の日はやってくる。
音もなく、しかし確かにひそやかな足音を鳴らして。
死神はやってきた。
たった一つの宝物を奪い去りに。
歩が七歳になって、間もない頃の話だ。
季節は、初夏。
梅雨が明け、本格的な夏の日々が始まりかけた頃。
渚は、この世を去った。
たった一人の、最愛の我が子を残して……。