小説『tomorrow』
作者:ハルカナ()

しおりをはさむ/はずす ここまでで読み終える << 前のページへ 次のページへ >>

 第十話:その涙の理由を知ったから



 室内は静寂に包まれている。
 夕方になり、窓の外からはオレンジ色の夕日が差し込み、それが二人分の影を浮かび上げていた。
 歩と美里。
 二人は互いに部屋の中央に立ち尽くしたまま、一歩も動かない。
 いや、動けないと表現した方が正しいか。
 歩は美里の手を掴んだまま動かず、美里は歩に手を掴まれたまま動けずにいた。
 だが、問題なのはそこではない。

「…………何で、だよ」
 今に聞きえてしまいそうなほどに細く、そして小さい声で泣くように歩は言う。
「何で……いなくなっちまうんだよ。どうして……」
「…………」
 美里の手を掴んだまま、歩は下を俯いて続ける。
「悪いのは、俺だっただろ……? なのに、どうしてなんだよ……どうして、連れて行っちまうんだよ。やめろよ……もう、俺から奪わないでくれよ、頼むからさ、なぁ……」
「水片……、どうし」
 どうしたのと美里が訊ねるよりわずかに早く、歩は静かに顔を上げた。
 その表情ははっきりとは見えなかった。
 だが、どういうわけか美里には、歩の表情がとても悲しげで、見えない何かに怯えているようで、そして……今にも泣き出してしまいそうな幼い子供のように見えてしまった。
 それを裏付けるかのように、歩の目元に何かが光って見えたような気がした。
 いや、それは気のせいなんかではない。
 確かにそれは、ゆっくりと歩の頬を伝って下へと流れ落ちていく……涙だった。

「水片……」
 美里は言葉を失った。
 それ以上に、何が原因でこんなことになっているのかさえさっぱり分からない状況だった。
 突然手を掴まれたかと思えば、歩はうわごとのように途切れ途切れの言葉を繰り返すし、挙句の果てには目の前で涙を流してしまっている。
 それでも美里が冷静さを保っていられるのは、どうしてなのか。
 あえて理由を言うとするなら、それはきっと……その手が、震えていたからだろう。
 歩の手が、美里の手を掴んだままでわずかに震えていたからなのだろう。
 不思議と美里は、それを受け入れることができた。
 理由も何もかも分からない、漠然とした恐怖感というそれを、自分でもおかしいと思えるほどにすんなりと。
 そうでなければ、その手を振り払って立ち去ってしまうことなんていくらでもできたはずだ。
 それをしなかったのは……恐らくではあるが、歩の気持ちを何となくだけど理解してしまったから。

「水片」
「……ごめん、母さん。俺が…………っ!?」
 そこまで言いかけて、歩は我に返ったように正面を見た。
 もう一度、二人の間の時間が止まる。
「……日下部? あ……」
 そこまで言って、歩はようやく自分の手が美里の手を掴んでいることに気付いた。
 その手を静かに離すと
「俺、何で……え?」
 次に気付いたのは、頬にある何かが流れ落ちた跡。
 そっと指の腹で拭って、歩はすぐに理解した。
「……あれ、俺、どうして……は、ワケ、わかんねぇ……何だよこれ、はは……」
 乾いた笑い声だった。
 美里の目の前で涙を流したという気恥ずかしさよりも何よりも、今の自分に何が起こっているのかを理解できないということが、歩の心を容易にかき乱してしまっていた。

「……水片、平気?」
 頭を抱えたまま立ち尽くす歩に、美里は静かに声をかける。
「…………ごめん。俺、またワケわかんねぇこと言ってたよな。忘れてくれ……ってのも、無理な相談だよな。はは、ったく、何で、こんな風になっちまったのかな……」
「…………」
 自嘲めいて笑う歩。
 それは、見ていて胸が苦しくなるような姿だった。
「……もう、大丈夫だって……そう思ってたはず、なんだけどな。ちゃんと一人でやっていけるって、そう、思ってたはずなのになぁ……」
 歩は目元を手の甲で拭う。
 気を抜くと、またそこから見せたくないものが溢れ出してしまいそうだったからだ。
「悪かったな、日下部。俺、どうかしててさ。気にすんなってのが、無理な注文だけど……できれば、見なかったことにしてくれると、助かる」
「私は、別に……」

 別に、何だというのだろうか。
 美里はそれ以上、この場所にふさわしい言葉を持ち合わせてはいなかった。
 果たしてどんな言葉を選べば、歩の傷は癒えてなくなるのだろうか。
 答えは、分からない。
 だから、かける言葉は見つからない。
 どんな優しい言葉でも、きっと歩の傷を癒すことなんてできやしないと、そう思ってしまったから。
 だが、それでも。
「……別に、いいじゃん。それくらい」
「……え?」
 美里は言わずにはいられない。
「いいじゃん、立ち止まったって。膝をついたって、弱音吐いたって……泣いたりしたって、いいじゃん。そんなの、皆同じだよ。誰だって、つまずかないで歩いていけるヤツなんて、そんなのいないよ」
 投げかけずにはいられない言葉だった。
 例えその結果、これ以上に深い傷を歩に与えることになったとしても、だ。

「誰だって、理不尽の中で生きてる。思うようにいかないこととか、自分だけじゃどうしようもできないことなんてこの世界にはいくらでもあるんだもの。挫折もする。後悔もする。悩んで迷ったその末に選んだ選択肢が、間違いであることだって珍しくない。けど、そこで終わりじゃないじゃん」
 美里は正面を向き直り、少しだけ微笑んで歩に告げる。
「私達は、また歩き出せる。立ち上がって、前に向かって、新しい一歩を踏み出すことができる。道は、ちゃんと続いてる。終わってなんかないよ……ううん、終わらせてなんか、やらない。だから、さ」
 今度は美里が、歩に向けて手を差し出した。
「まずは、立ち上がらないと。大丈夫だよ。何の根拠もないけど、水片なら大丈夫。私が保証する」
「…………だよ、それ」
 何だそれはと、歩は思わず言葉に出してしまう。
 ほんの少し前に見せた全ての弱さは、その言葉一つでどこかに吹き飛んでしまっていた。
「何なんだよ、その理屈は……」
 理にかなっている部分なんて何一つない。
 突き詰めれば突き詰めるほどボロが出て、しまいには破綻してしまいそうな脆すぎる理論にもほどがある。
 だが、それでも……。
「……なぁ、日下部」
「何?」
「お前……やっぱスゲーわ」
 言って、歩はその手をそっと握り返した。
 自然と笑うことができた。
 その繋いだ手に、さっきまでの震えはもう、ない。

-11-
Copyright ©ハルカナ All Rights Reserved 
<< 前のページへ 次のページへ >> ここまでで読み終える