小説『tomorrow』
作者:ハルカナ()

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 第十一話:ただ、あなたの笑う顔が見たかった



 歩は、美里に全てを話すことにした。
 いや、聞いてほしかったと言い換えるべきかもしれない。
 だがそれは、きっと必要のない重いものを美里に押し付けてしまう。
 だからまず、聞いた。
「くだらない昔話なんだけどさ。迷惑じゃなかったら、聞いてくれないか」
「うん。話して」
 相変わらずの即答だった。
 迷いがないのか、それとも乗りかかった船というヤツなのだろうか。
 この際、どちらでもよかった。
 ただ、誰かに聞いてほしかった。
 話半分ですまされるのではなく、真剣に打ち明けられる相手が、ただ欲しかった。



 歩が初めて絵を描いたのは、本人でもいつのことなのか覚えていない。
 本当に幼かった頃には、ラクガキのような殴り書きのような、一見して何が何だか分からないような作品もいくつかは生み出していたと思う。
 だからこの場合の絵を描いたというのは、自らの意思で何かを描こうと思い、そして出来上がったものという意味合いのものだ。
 思うにそれは、六歳の頃。
 小学校に入学して、最初の夏休みの話だ。

 夏休みの宿題というものは、当然ながら歩にとっても初めてのものだった。
 その中の一つにあったのが、夏休みの絵日記だ。
 当初、歩は絵日記というものが何なのかさえ理解できないでいた。
 渚に聞いて、初めてそれがその日に起こったことや思ったことを文字と絵で表現するものだと理解した。
 が、理解することと実行することは別問題であり
「……むずかしい」
 歩は文字を書き終えたところで手の中のペンを落としてしまう。
 文章を書くのは簡単だ。
 覚えたばかりのひらがなだらけの拙い文字だが、それでもしっかりと読み取ることくらいはできる。
 だが、絵はそううまくはいかなかった。
 学校の授業で絵を描くことは何度かあったが、正直な感想としてはあまり楽しくないというのが第一印象だった。
 一度は手にした色鉛筆を、しかし歩はすぐにテーブルの上へと転がした。

「あら?」
 と、そんな歩の背中に声がかかる。
「どうしたの、歩?」
「おかあさん?」
 歩が背中越しに振り返ると、そこには渚の姿があった。
 渚は歩の顔とテーブルの上に広げられた絵日記の様子を見るなり、何となく状況を理解する。
「絵日記を書いてたのね。夏休みの宿題なの?」
「うん。でも……」
 隣に座る渚を目の端で見ながら、歩はしかし不服そうな口調で言う。
「うまく、かけない。どうしよう……」
 幼いながらにも、歩はややへこんでいた。
 宿題だからどうこうというよりも、何度挑んでも結果が出ないことに悔しさを感じている様子に近い。

「あのね、歩」
「ん?」
「別に、上手に描けなくたっていいんだよ? ちゃんと一生懸命がんばったなら、どんな絵だって気にすることはないの」
「……でも」
 言い澱み、歩は下を俯いてしまう。
 その様子に思わず苦笑してしまう渚だったがそこであることを思いついた。
「そうだ、歩。明日、一緒にお出かけしようか?」
「おでかけ? どこ?」
「それは、明日になってからのお楽しみ。どうする? 行く? 行かない?」
「……いく」
「よし、そうこなくっちゃ。じゃあ今日は、早く寝ないとね」
 渚が微笑むと、歩も同じように笑った。
 空白の絵日記だけが、少しだけ寂しそうに二人のやりとりを眺めていた。

 翌日。
「わぁ……」
「どう? すごいでしょ?」
「うん、うん……」
 目を丸くして目の前の光景に見入る歩。
 この日二人がやってきたのは、市外にある大きな水族館だった。
 水槽と呼ぶにはあまりに大きすぎるそのスケールと、見たことも聞いたこともない様々な魚達に、歩は押し寄せる好奇心を抑えきれずにいた。
「おかあさん、あっち! はやくはやく!」
「はいはい。ほら、あんまり走ると転ぶからね」
 幼く小さな手に引かれ、渚は水族館の中を歩く。
 見るもの全てが真新しいのだろう、歩の興味は目の前の神秘的な光景に釘付けになっていた。
 夏休みの間ということもあり、平日ではあるが客足は思った以上に多かった。
 水族館の通路は大分幅広く作られているが、それでも肩と肩がぶつかりそうになった回数は数え切れないほどだ。

「今度はあっち!」
「ちょっと、歩。そんなに急がないでも……」
 やや息が上がり始めていた渚だったが、手を引く歩はそんなことなどお構いなしに走り回る。
 と、その足が急にぴたりと止まる。
「…………」
「っと。歩、どうしたの?」
 突然立ち止まった歩に訊ねるが、どういうわけか返事はない。
 その視線は、目の前にある巨大な水槽の中に引き込まれているようだった。
 視線を追い、渚がふと横に視線を移してみると、そこには
「……クジラ?」
 一匹の小さなクジラが、水槽のガラス越しに歩と向き合うように泳いでいた。
「…………」
 歩が無言でガラスに近づくと、不思議なことに水槽の中のクジラも顔を寄せるようにして近くへとやってきた。
 両手と顔をさらに近づけてみると、クジラは鼻先で挨拶するかのように小さくガラスをノックする。

「歩のこと、友達だと思ってるのかもね」
「……ともだち?」
 渚の言葉に振り返り、歩は顔を上げる。
「ほら、またこっちに来たよ」
「あ」
 見ると、クジラは歩が歩くのに合わせて水槽の中をゆっくりと泳いでいる。
 表情などわかるわけもなかったが、歩が嬉しそうに笑うと、クジラもそれに合わせて小さく微笑んでくれているような気がした。
「あはは」
 歩はそれがおかしくて、嬉しくて、何度も笑っていた。
 そんな光景を渚はこっそりとフィルムに収め、小さな夏の思い出の一ページが出来上がる。

 帰宅したのは、すっかり日が落ちた頃だった。
 食事も終え、あとは静かな時間を過ごすだけのはずが、歩と渚は揃ってテーブルへと向かい合う。
「歩、今日は楽しかった?」
「うん。たのしかった」
「あのクジラさんは、きっと歩と仲良くなりたかったのかもね」
「もう、なかよしだよ。ともだちだもん」
「そっか。じゃあもう、大丈夫だね」
「うん」
 小さく頷いて、歩は色鉛筆を握る。
 真っ白な絵日記の中、そこにはまだ誰の姿も映ってはいない。
「難しく考えなくていいの。歩が今日一日の中で、たくさん見てたくさん思ったことを、そのまま描いてみればいいんだよ。ね?」
「……うん、わかった」

 そして、優しい思い出が描かれていく。
 白と青を基調とした、夏を思わせるコントラスト。
 ただ、その手が動くままに。
 ただ、その目に焼き付けたままに。
 誰かに褒められるためのものじゃなく、誰かを笑顔にできるような、そんな絵になりますようにと。
 幼い歩は無意識のままに、そう思っていた。
 やがて、一枚の夏の思い出が出来上がる。
「できた!」
 歩は元気よくその絵を両手で持ち上げる。
 そして見せ付けるようにして、渚へと掲げた。
 渚はその出来上がった思い出を眺めて、本当に嬉しそうに微笑むと
「上手に描けたね、歩」
 そう言って、歩の頭を優しく撫でた。

 だから歩は、このときに思った。
 絵を描こうと。
 理由は、たった一つあればよかった。
 大好きな人が、とても嬉しそうに笑ってくれるから。

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