小説『tomorrow』
作者:ハルカナ()

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 第十二話:叶わぬ願いと知ってなお、祈りは高く遠くへと



 その日は、雨が降っていた。
「…………さん……?」
 梅雨が明けたとニュースで報じられたばかりの、夏の入り口のような日だった。
「……おかあ、さん……?」
 傘を差す人は少ない。
 突然降り出した雨に、行き交う人々はどこか早足だった。
 それなのに……。
「おかあさん、おかあさん……!」
 歩と渚の周囲には、たくさんの人が押し寄せていた。
 その誰もが、雨が降っていることなど忘れてしまったかのように二人を見下ろして、口々に何かを叫んでいる。

「おい、救急車はまだなのか!?」
「今こっちに向かってるそうだが、もう少しかかるらしいぞ」
「ぼうや、落ち着いて。しっかりなさい」
「近くに病院はないのか!?」
「おい、何かあったのか?」
「事故だってよ」
「私、偶然見ちゃった。この子が赤信号で急に飛び出して、それでこの子のお母さんが……」
 顔も名前も知らない何人もの声が響いた。
 が、その全てが歩の耳には届かない。
「おかあさん! おかあさんってば!」
 叫ぶようにその名前を呼ぶ。
 だが、その体は温かさを失っていくばかりで一言も返してはくれない。
 雨に濡れた冷たいアスファルトの上、横たわる渚の体。
 そこからはとめどなく赤い血が流れ、水溜りの上に広がっていた。
 その体は、ぴくりとも動くことはない。
 歩むの叫ぶ声も、届いていない。
 どうしてこんなことになってしまったんだろう。
 幼い歩にはそんなことを考える余裕さえなく、ただひたすらに叫ぶことしかできなかった。
 遠くの空の下で、サイレンの鳴り響く音がした。
 それでも渚は、その目を開くことはなかった。

「出来得る限りの手は尽くしました。あとは祈るしかありません」
 手術に執刀した医師の答えはそうだった。
 それはつまり、いつ何が起こっても不思議ではないということ。
 薄暗い病院の通路の真ん中で、歩はただ立ち尽くすだけだった。
「……しっかりしな、歩」
「ばあちゃん……」
 隣に立つ祖母を見上げ、歩はまだ涙の乾かないままの顔を上げる。
「歩がそんなんじゃ、助かるものも助からないよ。ばあちゃんと一緒に、神様にお願いしよう」
「……うん」
 集中治療室へと運ばれていく渚の姿を見送って、二人はその日病院をあとにした。

 それから二日間の間、渚は生死の境をさまよった。
 その間はもちろん面会謝絶状態で、医師達による二十四時間態勢の必死な治療が繰り広げられていた。
 そして、三日目の朝。
 昼過ぎに、渚の実家に病院から一本の電話が届いた。
 受話器をとった歩の祖母は、息を飲む思いで言葉に耳を傾ける。
 二言三言交わした後、やがて祖母の顔がわずかにほころび、嬉しそうな声を上げた。
 それを隣で見ていた歩は、反射的に立ち上がる。
 やがて通話を終えた祖母は、ゆっくりと……本当にゆっくりとした動作で受話器を置くと、目線の高さを歩に合わせて一気に抱きしめた。
「歩、やったよ。あの子、戻って来れたんだ」
「……おかあさん、だいじょうぶなの?」
「ああ、大丈夫さ。助かったんだよ、あの子は」
「……よかった。かみさま、ちゃんとねがいごと、かなえてくれたね」
「ああ、そうだね。今日は無理だけど、明日になったら病院にお見舞いに行こう。きっとあの子も、早く歩に会いたいって思ってるはずさ」
「うん!」

 奇跡は起こった。
 実を言うと、医者の見立てでは助からない可能性のほうが大きかったのだ。
 事故で頭を強く損傷した渚は、手術の終わったあの夜が峠だった。
 が、その生死の境を渚は二日間もさまよい、そして奇跡的に生還を果たしたのだ。
 今は意識もだいぶはっきりしており、状態も安定してきているという。
 今日一日は念のために集中治療室で様子を見る必要があるが、明日になって容態が悪化していなければ一般病棟に移って、多少の時間なら面会も可能だろうということだった。
 歩は素直にその報せを喜んだ。
 その反面、素直に喜べない理由が自分の中にあったことにも、幼いながらにうすうす感づいていた。
 だから明日は、伝えなくちゃいけない言葉が二つある。
 帰ってきてくれてありがとうと、僕のせいでごめんなさい。
 今ならちゃんと、言える気がした。

「おかあさん!」
 病院内では静かにするようにとあれほど言われたにもかかわらず、渚の病室に入るなり、歩は真っ直ぐにベッドに向けて走り出してしまう。
 無理もないだろうと、祖母も付き添いの看護婦も、この場だけはあえて何も言わずその背中を見送った。
「……歩?」
 渚はまだベッドから起き上がってはいない状態だった。
 頭や腕にはたくさんの包帯が巻かれ、見ている方が逆に痛々しくなってしまうほどの姿だった。
 だが、それでも。
「おかあさん、ぼく……ごめんなさい。ぼくのせいで、おかあさんが……」
 すでに泣きそうな目で訴える歩を、しかし渚は優しく微笑んでその先の言葉を制した。
「いいのよ、歩。それより、怪我はしてない? 痛いところは、どこもない?」
「……うん。だいじょうぶ」
「そう。なら、よかった」
 それだけ言うと、渚はゆったりとした動作でまだ痛みの残る腕を引きずるように動かし、そっと歩の頭を優しく撫でた。
 ただそれだけのことで、歩は言葉を失って泣き出してしまう。
 鳴き声を堪えているのは、精一杯の強がりのつもりなのか。
 いや、違う。
 ただ、嬉しかったからだ。
 ただ、悔しかったからだ。
 色んな感情がごちゃ混ぜになって、行き場を失って涙だけがばかみたいに零れ落ちてくる。
 伝えようと思っていた言葉のもう一つは、どこかに消し飛んでしまっていた。
 だから代わりに、その腕にしがみつくようにして泣いた。
 泣き続けた。
 ありがとうと。
 帰ってきてくれて、ありがとうと。
 伝えられない言葉の代わりに、声を殺してただ泣き続けた。
「ありがとう、歩」
 泣くだけの歩を諭すようにしながら、渚はか細い声で伝える。
「また、会いにきてくれたね。無事で、よかった」
 言って、渚は幸せそうに微笑を浮かべた。
 今なら、神様というものを信じて感謝をしてみてもいいかもしれない。
 そして、願わくば……。
 この奇跡のような、夢のような時間が、少しでも長く続きますようにと。



 その願いが叶わぬ願いと知ってなお、渚はただ、祈るしかなかった……。

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