第十三話:空を飛ぶクジラと、幸せな夢の終わりの日
渚が入院してから二週間ほどが経っていた。
夏休みももうすぐ終わりが見えてくる頃に差し掛かったが、歩は毎日のように病院へと足を運んでいる。
そのたびに歩は友達と遊んだことや、祖母と買い物に出かけたことなど、自分の絵日記に書いたことをそのまま渚へと話していた。
「そう。よかったね」
「うん。それでね……」
今日も病室の中にはそんな親子の会話が響いている。
渚の容態もだいぶ回復したようで、まだ一人で歩くことは難しいものの、ベッドから起き上がっていられるくらいにはよくなっていた。
食事もある程度はのどを通るようになったし、傷を覆う包帯の数もしだいに少なくなっていった。
全ては順調に進んでいた。
そうでないことに気が付いているのは、渚自身だけだった。
「そういえば歩、宿題はちゃんとやってる? 遊んでばっかりじゃだめだよ?」
「だいじょうぶだよ。ちゃんとえにっきだって書いてるもん。ほら」
渚がそう聞くと、歩は背負ってきたバックの中から日記帳を取り出し、その一番新しいページを開いて見せた。
「ね? ちゃんとやってるよ」
「あら、本当ね。よしよし、よくできました」
そう言って渚は歩むの頭を優しく撫でる。
少し照れくささはあったが、歩はこの撫でられる感覚が好きだった。
渚の手は暖かく、こうしているだけで腕の中で抱きしめられているような感覚になる。
微笑む歩をよそに、渚は絵日記のページを一枚ずつ丁寧にめくっていく。
「あら? これって確か……」
ふと、その手が止まる。
そのページは、初めて絵を描いた日記のページだった。
描かれているのは、蒼い水槽の中を泳ぐ一匹のクジラの姿だった。
「そっか。これが、最初の絵だったね」
「うん」
自分の絵日記を覗き込み、歩は渚の言葉に頷く。
お世辞にも丁寧とは言えない絵だった。
だが、その絵には何かこう引き寄せられるような何かが確かにあった。
見ているだけで思わず笑みがこぼれてしまいそうになるような、そんな何かが。
「ねぇ、おかあさん」
「ん。どうしたの?」
「けががなおったら、またいこう。クジラ、みにいこう」
「……そう、だね。また、一緒に見に行こうか。きっと、あのクジラさんももう一度歩と会いたいって思ってくれてるはずだよ。だって、友達なんだもんね」
「うん!」
歩は答え、力強く頷いた。
その日、ふとカレンダーを見ていて歩は気付いた。
「……そうだ」
遊んでいた手を止めるや否や、急いで階段を上って二階にある自分の部屋へと駆け込んでいく。
「歩、そんなに走ると怪我するよ!」
「だいじょうぶ!」
祖母の注意する声も半分ほど聞き流して、歩は部屋の机の中をひっくり返す。
そこから色鉛筆のケースと数枚の画用紙を見つけ出すと、今度はそれらをバックの中に詰め込み、それを背負って階段を下りていく。
「こら、歩!」
「ばあちゃん、ちょっとでかけるね!」
最後まで話も聞かずに、歩はそのまま勢いよく玄関の扉から飛び出していった。
日差しがジリジリと照りつける暑い日だった。
どこまでも澄み渡るような青空と、綿飴をちぎったような白い雲が流れる、よく晴れた日だった。
走り続け、歩はある場所へとやってきていた。
そこは、家の裏側にある山道を少し登ったところにある、小高い丘のような開けた場所だった。
周囲を雑木林に囲まれたそこは、時折風が吹き抜けるたびにザァという音を鳴らす。
そんな丘の端っこ、ベンチの代わりに置かれたような岩の上に座り込み、歩は背負ったバッグの中身を取り出す。
画用紙を岩の上に押し付け、風で飛ばされないように固定して色鉛筆を手にする。
「……よし」
そして視線を上げて、そこから見える景色を確認した。
そこは、地表から少しだけ高い場所。
見渡す景色は、小さくなった街並みと、広がる大空。
青々と広がる空に、白い雲が小船のようにゆらゆらと浮かんでいる。
それはまるで、あの日の水族館で見た水槽の中のクジラの姿のようだった。
歩は空を見上げ、一人そんなことを思う。
渚が退院したら、もう一度あの水族館に行こうと約束した。
いつ退院できるかは、残念だがまだはっきりとは分かっていない。
だから、これは
「あしたは、おかあさんのおたんじょうびだもん」
歩から渚へと贈る、誕生日プレゼントだ。
しばらく前に、渚は歩にこんなことを話していた。
渚という名前は、八月に生まれた女の子だからつけてもらった名前なのだと。
そのことを思い出した歩は、絵を描いて渚にプレゼントしようと考えた。
そしてその時点で、不思議と迷いもなくプレゼントの中身も決まっていた。
それは、絵を描くこと。
あの日、水族館で見たクジラの絵をもう一度描こうと。
そして見上げた空には、クジラそっくりな形をした白い雲が、青空という名の大海原をゆうゆうと泳いでいた。
ゆっくりと、しかし確実に流れていく雲を歩は必死に目で追いかける。
眩しいくらいに照りつける太陽が、今だけはジャマで仕方ないくらいだった。
それでも、歩は白いクジラを追いかける。
あの日と同じ景色を追いかける。
上手に描けたねと、そう言って優しく頭を撫でてくれた渚の顔を思い出し、色鉛筆を握った手を動かす。
少しずつ、少しずつ。
青と白の景色が重なっていく。
真夏の空を泳ぐ、一匹の小さなクジラ。
もう一度、また二人で会いに行くからねと、届かない言葉を旨の内側でだけそっと呟いて、少しずつ一枚の絵が出来上がっていく。
どこかで、セミの鳴く声がした。
日が暮れた頃、歩は家に帰ってきた。
が、やはり帰ってくる時間が遅かったこともあり、祖母にいつもよりきつくお説教を受けてしまう羽目になった。
それでも歩は、嫌な気分なんてこれっぽっちもしなかった。
背中のバックの中には、その理由が入っている。
部屋に戻ると、出来上がった絵を筒状に丸めて紐で軽く縛り、それと一緒にメッセージカードを書く。
難しい言葉は何一つ必要なかった。
覚えたての少し曲がったひらがなで、たった一言あればいい。
おかあさんへ、おたんじょうびおめでとう。
それだけの文字を書くのに、この日は不思議と緊張で歩は手が震えた。
きっと、渚は喜んでくれる。
いつもみたいに優しく笑って、絵を見て褒めてくれるに違いない。
そう、思っていた。
明日になれば、それが現実になるのだと。
信じて、疑わなかった。
翌日、八月十八日。
自身の誕生日であるこの日に…………渚は、この世を去った。
たった一人の、最愛の我が子を残して。