小説『tomorrow』
作者:ハルカナ()

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 第十六話:歯車の動き始めた日



 ワタアメをちぎってその辺に放り投げたような雲と、オレンジ色の夕焼けが遠くの空まで続いている。
 夜と呼ぶにはまだ早く、昼と呼ぶには遅い時間。
 道行く人の数も少し増え、誰もが見えない何かに背中を後押しされるかのように早足で過ぎ去っていく。
「……」
 歩はそんな道の上を少し歩いては立ち止まり、ぼんやりと空を眺めていた。
 美里と分かれたのは、ほんの数分前のことだ。
 結局あの後、時計の針がぐるりと一周するくらいの時間、歩は話を続けていた。

 話し終えてすぐ、歩は後悔のような念に襲われた。
 一体自分は何を喋っていたのだろうか。
 詩人でもなければ語り部でもない。
 言葉一つで誰かの心を動かすことなんでできるはずもない。
 分かってはいたのだ。
 分かっていても、溢れ出る言の葉を押し留めることはできなかった。
 誰かに聞いて欲しいという願望の反面、誰にも知られたくなかったという矛盾。
 その煽りを受けてか、今更になって続ける言葉も見失ってしまう。
 体は猫のように背を丸めて、もうほとんど閉じかけた視線の先は床の茶色。
 鼻腔をくすぐるのは乾いた絵の具と油の匂い。
 普段から身近だったはずのそれさえも、今は鬱陶しいと感じてしまう。
 喉元までこみ上げてくる溜め息を追い返すのが精一杯で、気を抜けば重たい空気を根こそぎ吐き出してしまいそうになる。
 そのとき、

 「――ありがとね」

 音も無く、優しく肩に置かれたその手と、不意打ち同然にかけられたその言葉だけが、透き通るように響いていた。
 その瞬間だけ、世界中のありとあらゆる音がかき消されていた。
 風の通り抜ける音も、身じろぎしたときの衣服の衣擦れの音も、押し殺していたわずかな吐息さえも、心臓の鼓動さえも……全てが止ま

ってしまったかのようだった。
 ややあって、歩は視線だけをゆっくりと美里へと移した。
 美里は変わらず、そこに佇んで静かに微笑んでいた。
 同情の色も哀れみの色も無い、あるがままの小さな笑顔のままで。

「……」
 歩は言葉が出なかった。
 何を言えばいいのか分からない。
 それさえも見透かしたかのように、美里が一言続ける。
「ありがとね、水片。ほんのちょっとかもしれないけど、あんたのこと、分かった気がする」
 真っ直ぐな言葉だった。
 今の歩には、眩しすぎるくらいに。
 慰める言葉ではない。
 蔑む言葉でもない。
 ただただ、偽りの無い言葉だった。
 たったそれだけのことで、歩は救われたような気がした。
 それらしい言葉を期待していたわけじゃない。
 突き放され、黙って去ってしまわれても構わなかった。
 それでも美里は、こうしてくれる。
 先へも後にも動かずに、隣に並んでくれる。
 だから……
「……日下部」
「ん?」
「……ありがとな」
「……うん」
「ありがとう」
「うん、どういたしまして」
 交わした言葉なんて、結局はそれだけ。
 それだけで十分だった。
 他に理由があるとするなら、それはきっと……。

 ――その肩に置かれた小さな手が、大好きだったあの人の温もりによく似ていたからだろう。



 そして、二人はお互いの日常へと帰っていく。
 夏休みは残すところ、あと二週間。
 それが終われば、季節は秋。
 今はまだ相変わらず暑苦しい日々が続くが、もう少しすればそれも終わるだろう。
 月が変われば、この風も少しは涼しくなってくれるだろうか。
 この胸に刻まれた傷も、過去の苦い記憶も、いつかは良かったと思える日がやってくるだろうか。
 ……そんな日が来ると、信じたい。
 今はまだ、少し辛いままでいい。
 でも……やがて、木々の葉が緑から赤や黄色に変わる頃。
 今日と同じように、同じ場所と時間の中で。
 同じ歩幅で歩き、同じ景色を眺め、少し違う背丈と目線の高さで。
 大切だと思える人と一緒に、過ごせたらいいと思う。
 それぞれに繋がる、未来へと向かって。

 しかし、それでも。
 歩が失うことを知っているように、美里もまた、失うことを知っていた。
 違ったのは、それが過去か未来かということだけ。

 世界は廻る。
 運命も廻る。
 未来とは結末。
 望んだ未来だけが、そこに用意されているとは限らない。
 約束は、できない。
 それがどれだけ優しくて、美しくて、消えてしまいそうなほどに儚いものであっても。
 世界はそれを、容易く否定することができるのだから。
 だから、願うんだ。
 だから、祈るんだ。
 たった一つ、今確かなモノ。

 キミとボクと、セカイのヤクソク。

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