小説『tomorrow』
作者:ハルカナ()

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 第六話:彼女のきっかけ



 風呂から上がって自室に戻ると、机の上においてある携帯の画面がやたらと点滅を繰り返していた。
 開いてみると、そこには二件の着信履歴が。
「……日下部か」
 発信者は美里だった。
 歩は携帯の画面を見たままわずかに躊躇ったが、何かを決意するように一度静かに目を閉じると、黙ってその履歴の番号に折り返しの発信をした。
 一回、二回とコール音が響く。
 三回目のコール音が終わる頃に、電話の向こうで相手が出た。

『もしもし、水片?』
「……ああ。悪い、夜遅くだってのは、分かってたんだけどさ」
『ううん、気にしないで。先に電話したのは、こっちだしね。もしかして、まだ具合悪くて寝てた?』
「いや、風呂入ってただけ。体はとりあえず、もう大丈夫だよ。その……」
 一拍の間を置いて、歩は言葉を続けた。
「悪かったな。いきなりぶっ倒れた挙句に、わざわざ保健室まで運ばせたりしちまって」
『いいよ、そんなの。気にしてないって』
 電話の向こう、美里は小さく笑い飛ばすかのような声色でそう答える。
「……それで、何か用があったんじゃないのか?」
『あ、うん。まぁ、その必要もなくなったみたいだけど』
「どういう意味だ?」
『思ったより元気そうだし、余計な心配だったかなって』
 軽い口調ではあったが、直にその言葉を聞いて歩はわずかに……いや、かなり動揺した。
「ば……何、言ってんだよ、お前」
『何が?』
「何がって……そりゃ、お前……」
 普段なら強がって、お前に心配されるような覚えはないと言い切ってしまえたはずだ。
 それができないのは、心のどこかでこの電話を喜んでいる自分が確かにいたから……なのかもしれない。
 とはいえ、それをこの場面で素直に認めるのはどことなく悔しい気がした。
 だから歩は必死に虚勢の言葉を貼り付ける。
 お互いの顔が見えてないのをいいことに、精一杯の意地を張っておく。
『もしもし? ちょっと水片、聞いてる?』
「……ああ、聞いてる聞こえてる聞こえますよ」
『何で急に投げ槍なのよ?』
「色々あんだよ、こっちにも!」
 その原因が電話の向こうの自分にあろうなどとは、美里は夢にも思わないだろうが。

『それで、明日なんだけど』
 電話の向こうの美里は話題を切り替える。
『どうする?』
「どうするって、何が?」
『だから、明日よ。体調悪そうなら、もう少し休んでおいた方がいいでしょ。夏バテってわけじゃないとは思うけど、また倒れられでもしても困るし』
「いや、大丈夫だろ。今ももう、気分は全然平気だし」
『本当?』
「嘘じゃねーって。そうでなきゃ、こんな悠長に電話で話せるかよ」
『……分かった。じゃあ、いつもどおりに一時に図書室で。一応言っておくけど、無理はしないでいいからね』
「へいへい、分かってますよ。ていうかお前、意外と心配性なのな」
 そのせいで歩はやたらと困らされているわけだが、電話の向こうの美里はそんなことには気付きもせず
『みたいね。友達にもよく言われる。性格はさばさばしてるのに、妙なところで心配性なんだねって。ま、生まれつきの性分ってやつなのかな、これは』
 そんなもんかねと歩が返すよりも早く、美里はさらに言葉を続ける。
『けど、それなら水片も似たようなものでしょ』
「は? 俺が?」
 言われて歩は心当たりを探るが、それらしいものは思い当たらない。
 自分という人間はそんなにも心配性だっただろうか?
 ……いや、確かに成績に対しては年中無休で心配性かもしれないのだが。

『心配性じゃないけど、相当のお人好しだよ』
 そんなことを思っている歩に対し、美里はわずかな笑みを含んだような声でそう言った。
「俺が、お人好し……?」
 言われ、ふと考える歩に対して美里は続ける。
『だって、そうじゃん。私なんかの我侭に、律儀に付き合ってくれてる』
「そりゃ……でも、お互い様だろ? 俺だって、勉強教えてもらってるわけだし。つーか、明らかに俺のほうがお世話になってる度合いが大きいだろ。お人好しなんてのは、それこそお前のためにあるような言葉じゃん」
『お人好し、か……』
 歩の言葉を受け、電話の向こうの美里はわずかに黙り込む。
 その微妙な空白の時間が、ほんの少しだけ歩を不安にさせた。
 もちろん、その理由は分かるはずもない。
『そうかも、しれない。自分じゃ、よく分からないけどさ』
「それこそお互い様だろ」
 そうだねと美里は頷いて、二人は電話越しに小さく笑い合った。

『……あのさ、水片』
「ん?」
『前にさ、少しだけ話したじゃん。私が、絵本作家になるのが夢だって』
「ああ、聞いた」
『少し前の話になるんだけど……五月の終わり頃にあった、職場体験学習って覚えてる?』
「ああ、あったな、そんなの。それがどうかしたのか?」
『そのときさ、私は他の女の子達数人と、保育園に行ったんだ。そこでさ、お昼寝の時間のときに、子供達を寝かしつけるのに絵本を読んで聞かせたことがあって』
 歩は少しずつ話が見えてきた。
 しかし、余計な口は挟まずに今は美里の話に耳を傾ける。
『そんなこと、やったこともなかったんだけど……まぁ、おとぎ話をしてあげたんだ。王子様とかお姫様とかが出てきて、悪いヤツをやっつけて、幸せに暮らしましたみたいな、どこにでもあるようなヤツ』
「うん」
『最初はちょっと恥ずかしかったんだけど、他の皆もやってたことだから、私だけ嫌ってわけにもいかなかったんだけど……いざ話し始めたら、これが結構楽しくてさ。最初は寝ることも忘れて続きが気になって仕方ない顔してた子供達が、でもやっぱり少しずつ眠っていっちゃうの。結局、お話を最後まで読み終える前に子供達は皆眠っちゃってた』
「うん」
『そのまま絵本を閉じちゃえばいいのにさ、私ってばおかしいんだ。別に珍しくもないその絵本の絵が、やたらと目に焼き付いちゃったみたいになってね。そのときに思ったの。絵本作家になろうって。何の前触れもなく、唐突に。信じられる?』
「いや、信じられない」
 歩は即答した。
 が、その答えで電話の向こうにいる美里が機嫌を損ねるようなことはなかった。

 それよりも早く歩は言葉を続けた。
「って言いたいけど、お前ならアリな気がする。なんかそういうの、お前には合ってそうだ」
『そっか。褒められてる気はまるでしないけど……うん、悪い気分ではないかも』
 美里は小さく笑ってそう答えた。
『……子供ってさ』
「ん?」
『子供って、本当に幸せそうに眠るんだよ。無垢って言えばいいのかな。普段はうるさいだけで、すぐに泣くし、ケンカするし、我侭だし』
「ま、そりゃそうだな」
『だから、かな。理由になってないような気はするの。自分でもあやふやだって分かってる。分かってるんだけどさ…………やっぱり私は、あんな笑顔をもっとたくさん見たいんだと思う。だからあのとき、唐突ではあるけど、そう思ったんだと思う』
「……そっか。やっぱお前、すげーよ」
『そんなことないよ。水片のほうが、ずっとすごい。多分私、同年代で尊敬できる人間って水片だけかも』
「おま……そりゃいくらなんでも大げさだ。俺なんかをあんまり過大評価すんなって」
『そんなことない。何度も言うけど、水片の絵に出出会うことがなかったら、私はとっくに折れてた。それだけはきっと、間違いないって断言できる』
「……だとしたら、それは俺がすごいんじゃない。すごいとしたら、そりゃただの偶然だ」

 美里と歩の絵の出会い。
 全てのきっかけは、そこにあるのだと。
『そうかも、しれない。けど、それでも私は』
 自分なんて大した存在じゃない。
 それどころか、ちっぽけすぎてすぐにでも吹き飛ばされてしまいそうなほど小さな存在に過ぎない。
 歩がそんなことを思っていても、しかし美里はその全てを無視して言い切る。
『その偶然に、感謝してる』
「……ま、好きにしてくれ」
『うん、そうするよ』
 そう言った電話の向こうの美里の言葉は、確かに嬉しそうな声をしていた。
「……悪い、そろそろ寝るわ。しっかり寝ておかないと、明日がヤバそうだ」
『無理するなって言ったじゃん』
「寝起き悪いんだよ、俺。とにかく、また明日な」
『うん。長々とごめんね。それじゃ、おやすみ』
「ああ」
 最後にそう一言ずつ交わして、歩は通話を終えた。
 そのまま携帯を机の上に放り投げて、部屋の電気を消してカーテンを閉めて布団の中に潜り込む。
「……あの、バカ」
 そして毒づく。
「……こんな気分で、すぐに寝れるわけあるかあああああああああああっ!」

 結局歩が眠りについたのは、もう窓の外で小鳥の鳴き声が聞こえ始めていた朝方になってからのことだった。

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