小説『tomorrow』
作者:ハルカナ()

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 第八話:あの日あの時あの場所で、あなたがくれた最後の言葉



 何かが変だ。
「…………」
 口にこそ出さないが、歩はそう感じていた。
 天気は曇天。
 何ともはっきりしない、灰色と白の間くらいの色合いの空模様。
 炎天下の日差しに焼き尽くされるよりはいくらかマシではあるが、これはこれで見ているだけで憂鬱になってしまいそうな天気だった。
 もしかしたら、そのせいなのかもしれない。
「…………」
 美里はさっきからずっと、その灰色の空の向こうを眺めている。
 その先に見えるものなんて、見飽きた街並みと同じ目線の高さにある地平線以外には何もないというのに。
 何度となく歩はその横顔に声をかけようと思いつつも、結局は未だに声をかけられないままでいた。
 その場の空気というか雰囲気というか、とにかくそんなものがとてもじゃないが声をかけることを躊躇わせるのだ。
 それでもこの場の空気に耐えられなくなり、やがて歩は搾り出すようにして美里に声をかける。
「なぁ、日下部」
「…………」
 しかし、美里の反応はない。
 相変わらずのおぼつかないような視線で、色も変わらない向こう側の景色を眺めるばかり。

「日下部!」
 今度は少しだけ強く、叫ぶように歩は名前を呼んだ。
 その拍子に、今までぼんやりとしていた美里の両肩がなにかに怯えるかのようにびくりと震えた。
「え? な、何? 何?」
 そればかりか、急に慌てふためくかのように周囲を見回し始める。
 そしてようやくのことですぐ隣に座る歩の姿をその目で確認すると、今度は途端に落ち着きを取り戻して小さく深呼吸をし、いつもの態度へと戻っていく。
「……何だ、水片か。脅かさないでよ」
「……いや、お前」
「ん、どうかした?」
「……悪い、何でもないわ。でかい声出して、悪かった」
 ひとまずの謝罪の言葉を置いて、歩はやや黙り込む。

 やはり様子がおかしい。
 それというのも、今日になって始まったことじゃない。
 確かに今日会った時点で何かおかしいという疑問はあったのだが、遡ればそれは昨日の夕方まで時間を巻き戻すことになる。
 あの後、喫茶店から出て別れたあの時点ですでに、美里の様子はどこかおかしかった。
 妙に口数は少なかったし、気が付くとふいに物思いにふけっているような姿を見せていた。
 歩は最初、それが疲れから来ているものだと勝手に思っていたが、今にして思えばそれは間違いだったと思う。
 簡潔に言うのならば、美里は何かを思い悩んでいるかのように見えた。
 だが、歩に分かったのはそれだけで、そこまでだ。
 誰だって悩みの一つや二つは日頃から抱えているだろうし、それを表に出したくないことだってある。
 場合によっては家族や友人に相談を持ちかけることもあるだろうが、自分がその立ち位置に存在しているとは、歩は正直思えなかった。
 関係はおおむね友好的だとは思う。
 とはいえ、それは同じ学校の同級生という枠組みの中だからこそのものだと思う。
 お互いの関係は良くて友人であり、それ以上の親友や、ましてや恋人なんてものには程遠いものなのだろうと。
 そうとなれば、おいそれと簡単に相談できないことの方が多いだろう。

 あまり実感こそないが、自分達のような年頃というのは何かとそういうのが難しい時期であるということは歩にも分かっていた。
 分かっていたつもりだった。
 だからこそ、その場ではあえて何も聞かなかったのだ。
 余計なお節介だと思われたくなかったから。
 ……いや、実際はそうじゃない。
 本当の答えは……怖かったからだ。
 ただ純粋に、歩は怖かった。
 拒絶されることが、怖かっただけなのだ。
 きっと美里のことだから、何でもないよと笑い飛ばしてしまうはず。
 けれど、もしもそうではなかったら?
 何も知らない立場の自分が選んだ言葉が、実は相手の心臓をナイフで抉り取るような鋭い言葉だったとしたら?
 きっと、このまなじゃいられない。
 いられなくなると、歩は知った。
 それは……それは、少しだけ…………悲しい。
 少しだけ、辛いと歩は思う。
 そう思えるくらいには、なっていたのだ。
 美里と共に過ごすこの何でもない時間が、居心地がいいと思えるくらいにまでは。
 だからこそ、今を失いたくない。
 この大切な時間を、手離したくない。
 もう、二度と……。

「……水片」
「…………」
「水片、聞いてる?」
「……え? ああ、悪い。どうかしたか?」
 どうやらもの思いにふけっていたのは歩も同じだったようだ。
 何度か名前を呼ばれたことで、ようやく歩は美里へと視線を移す。
「……ごめん。今日はちょっと、気分が悪いから。私、先に帰るね」
「……そう、か。一人で、大丈夫か?」
「ん、平気。それと、もし明日もこんな調子だったら、家で寝てるかも。そのときはまた、メールでもするよ」
 じゃあねと続け、美里は席を立って歩に背を向けた。
 どくん、と。
 そのとき、心臓の鼓動が一瞬だが確かに高鳴ったのを歩は覚えている。
 理由は分からない。
 ただ、どういうわけかこの瞬間だけは、得体の知れない焦りのような怖れのような、そんな不吉めいた感覚が全身を電流のように駆け巡っていた。
 次の瞬間、歩がとった行動は実にシンプルだった。
「……え?」
 ふいの出来事に、美里の動きが止まる。
 その、手を。

「……みな、かた……?」
「…………」
 歩は美里の手を、ただ無言で掴んでいた。
 自分でも何が何だか分からない。
 ただ、無意識のままに伸ばしたこの手は美里の手首を強く掴んでいた。
 手のひらから自分以外の人間の体温が伝わる。
 それはとても温かく、どこか心地よく、そしてひどく懐かしい気がした。
「…………」
「…………」
 二人の時間が止まる。
 手を掴んだ歩も、手を掴まれた美里も、互いに言葉を失ったまま立ち尽くしていた。
 永遠のような、しかし決して長くはない時間が流れていく。
 一秒、また一秒。
 音が完全に消えていた。
 二人が呼吸するかすかな息遣いさえ、今この場所にとってはただのノイズでしかない。
 そしてこの凍りついた時間を動かしたのは、歩の言葉だった。

「…………な」
「……え?」
 あまりに小声過ぎたその言葉は、美里の耳には完全には届かなかった。
 ただ一つ分かったのは、歩がとても苦しそうな表情で胸の内から何かを搾り出そうとしているということだけだった。
 そうとは知らず、歩の心臓が一際大きく鼓動を打つ。
 心臓が焼けているかのような錯覚。
 紡ごうとする言葉さえ、のどの途中で焼き尽くされてしまう。
 それでもあがくように、歩は言う。
 吐き出すように、たった一言。
「…………行くな」
 その言葉の意味は、おそらく美里には分からない。
 それでも、無意識の中で歩は告げる。
「…………俺を、置いて行くな……!」
「……水片」
 ……それは。
 今はもういない、あの人へとかつて叫んだ言葉。
 幼かった頃、のどが枯れるほど叫んだ、お別れの言葉。



『――バイバイ、歩。元気でね』

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