「本当を言えば、僕にも正確にあれが何なのか、それはわからないんだ。けれど、あれらは昔から変わらない。歳も取らない」
昔は、父母なども生きていた頃は、ちゃんと他にも屋敷に雇われている『人間』がいたのだ。羽田という老人も、子供の頃に善くしてくれた者の一人だ、と浅葱は言う。
母が亡くなり、父の振る舞いが酷くなった為に辞めていった者や、初子と二人になり人手が必要なくなって暇を出した者もある。
しかし、不審な事件が起こるようになったのも事実。それで、何人か残っていた者達も浅葱が辞めさせたのだ。羽田などは最後まで屋敷に残ると聞かなかったが、強引に辞めさせ屋敷から出したのである。
そうして、今に至る。
そして、浅葱は、最も驚くべき言葉を口にした。躊躇いがちに、けれど決意したように。
「初子は蠱毒だ。この家にいる者の命を取り込んで、強い呪詛になる」
この屋敷が、あの壺なのだ、と。
「僕の考えが少し甘かった。君が余計なことに首を突っ込みすぎた所為もあるのだけれど……一日二日なら、と」
浅葱の言葉に礼太郎の脳裏に様々なことが過ぎった。浅葱の病のこと、そして朝目覚める度に悪くなっていく気のした自分の体調のこと。あれは、気の所為などではなかったとしたら?
礼太郎は、自分に足止めを食わせた天気でさえ、何らかの作為のもとに崩れたのではないかと疑った。
「僕もそう長くはないだろう。君も早く去るがいい。君のことも心配だが、初子に……いや、蠱毒にこの家の者以外の味を覚えさせてはいけない。この家という檻が壊れれば、蠱毒は完成することなく、どこまで肥大するかわからない」
その言葉が事実であれ、礼太郎を脅す為のものであれ、礼太郎にもう断る理由などなかった。
礼太郎がのろのろと荷をまとめ始めると、浅葱は無言で部屋を出て行った。最後に障子が閉まる音がして、礼太郎は、ああ本当に彼はただの人間なんだと、どこか空ろな頭で思った。
* * *
羽田は、最初他の村人と同じように扉さえ開けてはくれなかったが、浅葱の名を出した途端、まだ不審そうな顔はしていたものの小屋の中へ礼太郎を招き入れてくれた。
礼太郎の顔色の悪さに、羽田は何も聞かず重湯を出してくれた。それを有り難く頂戴する。温かい物を腹に入れると、少しばかり気分が落ち着いて頭が働くようになった。
熱い重湯とともに、今更のように逃げ出したことに対する罪悪感が胃を刺激して、涙が滲みそうになる。
羽田は何かを察したのか、礼太郎が食べている間も、そして食べ終わった後にも何一つ聞かなかった。ただ、食べ終わった後で、しばらく奥の部屋で休んでそれから送って行こう、と言ってくれた。その心遣いに、浅葱がこの男を頼るように言った理由がわかった気がした。
彼女は、兄の存在を否定することで彼を守ったのではないだろうか。なるべく命を奪わなくて済むように。
だからこそ、彼だけはここまで生きていられた、そしてその代わり充足する為に礼太郎には浅葱の予想した以上に早く異常が起きた。そういうことではないだろうか。
――――蠱毒の……最後の一匹は、どんな気持ちなのでしょうね。
あの蔵の中で初子の呟いた言葉が甦った。ああ、と礼太郎は目を伏せた。あの、悲しげな表情の意味、あれはきっと……
――――孤独。