小説『雲影の葬』
作者:雪篠(A BLANK SPACE)

しおりをはさむ/はずす ここまでで読み終える << 前のページへ 次のページへ >>

「書生さん、何か御用かい?」
 意を決して屋敷の方へと踏み出そうとした瞬間に掛けられた言葉に、叫び声を上げそうになる。辺りを見回すと、少し離れた所に一人の若い男が立っていた。着流しに長髪、それはうっすらと夕陽に透ける色をしている。

「どうしたの」
 その男は軽やかに言って青年の傍らまでやって来た。
 この家の方ですか、勝手に入ってすみません、といったことを青年が喋っている間、男は特に咎める訳でなく興味深げに青年を観ている。

「あの……」
「何?」
「どうして、僕が書生だと?」
 男が青年に放った第一声に驚きの色で問うと、男は一瞬きょとんとして、それから端正な顔を崩して笑い出した。
「そんな格好をしていれば誰にでもわかるさ」
 言われて青年は自分の格好を見る。紺絣(こんがすり)の下に釦(ぼたん)シャツ、小倉袴――確かに、いかにも書生だという服装である。普段は周りも同じような格好ばかりだったから、あまり意識していなかったのだ。
 そんなことに気付かなかった自分に恥ずかしくなって、青年の顔に微かに朱がはしる。

「着物の下にシャツとは、無粋だよね」
 言って、するりと男の手が青年の胸元を撫でる。咄嗟のことで青年が動けずにいると、男は先ほどとは違う目を細めるだけの笑みで、そっと青年の頬へ手を添える。
「ねぇ、書生さん、ここにいては危ないよ。宿なら他を探した方がいい」
 ね、と男は青年から離れる。最後にくすりと笑った唇が妙に艶かしく赤く見えた。
 青年が我に返って声を掛けようと思った時には、既に男は目の前から姿を消していた。その代わり、女中らしい女が青年の方へ歩いてくるのが目に入った。

「もし、何かお困りですか?」
 女中は決して愛想がいいとはいえないが、丁寧な調子で青年にそう尋ねた。
 さっきの男の言葉は気にはなったが、今からでは他に宿が見つかる訳もない。青年は女中に今夜の宿を探していることを話し、屋敷に泊めてもらうことにした。




「こんな場所ですから、苦労なさったでしょう? 村の人達は、外の人を嫌がるから」
 最初の女中とは違う大柄な女中が、長い廊下を奥へ進んだ部屋へと青年を案内しながら言った。どうやら、こちらの女中は愛想はあるが、随分と明け透けな性格のようだ。
 廊下の冷えた板の感触が足の裏から伝って身震いしそうになる。部屋に着いた時、畳を暖かく感じたほどだ。

「夕餉の前に一度、初子様にご挨拶に伺いましょう。呼びに参りますので、それまでは部屋から出られませんよう……」
「初子様? こちらの奥方様ですか?」
「いえ、先代の当主の一粒種で、今はこの家の御当主でございます」
 それでは、と女中が部屋を出て行ってしまってから、青年は門のところで会った男について訊きそびれてしまったのに気付いた。当主の一人娘が家を継いだというのだから、あの男はこの家の本家筋の人間ではないのかも知れない。どちらにしろ、女主人にお目通りがかなった際に明らかになるだろうと、青年はそれ以上は深く考えなかった。

   *   *   *

「市ノ瀬初子と申します。聞けば、道に迷われたとか。広いだけが取り柄の古い家ですが、どうぞゆっくりと休んでいってください。朝には誰かに送らせましょう」
 通された部屋で青年を待っていたのは、一人の少女であった。
 歳はまだ十五にはならないくらいに見える。白い肌も黒髪も濡れたようにしっとりとして、人形のような整った顔をしている。大きな柄の入った緋の上等な着物を身に着けているが、それが為、小柄な体がより小さく見えた。

「あ、と、突然押し掛けたというのに、ありがとうございます。僕は、八木礼太郎といいます」
 まるで一つの匠(たくみ)の品のような少女につい目を奪われ、はっとして慌てて礼を述べる。
「学生さん、ですね。大学では何を?」
「歴史を……というより、土着の風俗を研究しています。どうも、今の政治は不得手なもので」
 そんなだから、大学まで進みながら、と周囲には冷笑されるのだ。なまじ成績が悪くない分、何が楽しくて文献やら金にもならないがらくたを漁っているのかと。

「そうですか。それなら、この屋敷の蔵にある物なども興味がおありかも知れませんね。よろしければ後でお目に掛けましょう」
 馬鹿にする様子もなく艶やかな笑みを浮かべた初子の顔を見ながら、礼太郎は何故だか先刻の男を思い出していた。
 髪の色さえも違う、顔かたちではなく、かといって雰囲気というのでもなく。けれど、どことなく面差し、いや表情の作り方だろうか、礼太郎には二人は何かが似ているように思えた。

 そうこうしているうちに、最初に礼太郎を屋敷へ上げてくれた方の女中が夕餉の仕度ができたのを知らせに来、礼太郎は初子の部屋を退出することとなった。

-2-
Copyright ©雪篠 All Rights Reserved 
<< 前のページへ 次のページへ >> ここまでで読み終える