小説『雲影の葬』
作者:雪篠(A BLANK SPACE)

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 初子の部屋からの廊下は中庭が一望できるようになっており、空にはぼんやりと霞んだ月が出ているのが見えた。あいにく角度が悪く、池に綺麗に月が落ちはしなかったが、風が小波を立てる度、水面がきらきらと光るのはそれなりに風流な趣だった。
 他の女中が忙しくしている様子に、部屋へは一人で戻るからと呼びに来た女中を仕事へ戻らせ、長い廊下を一人歩く。
 結局あの男のことを訊けなかったなと礼太郎は苦笑した。



「出て行くように言ったつもりだったんだけどね」
 そのあまりの間(ま)の絶妙さに、考えが読まれたのかと焦る。柱にもたれるようにして礼太郎を見据える姿は、月明かりの所為かやけに様になっている。
「明日の朝には出て行きます、何が気に食わないのか知りませんが、それまで……」
「気に食わない? 誰が?」
 男は少しだけ表情を和らげた。けれど、その苦笑は物分りの悪い子供にするのに似ている。
 実のところ礼太郎も言いながら、何かが違うという思いはあった。男の様子は、別に村のそれのように余所者を嫌うようでもなかったし、むしろどちらかといえば、これは礼太郎の気の所為でなければだが、悪意か厚意かでいえば厚意であっただろう。

 しかし……。
「ここにいては危ないと、そう言っただろう?」
 そう、礼太郎には、男の言う危険の意味が理解できなかった。屋敷で見かけたのは、少女と世話をする女中が数人。この屋敷の何がそれほど危険だというのか。
「僕には、貴方の言うことが理解できません。危険だというのなら、何が危険なのか仰ってください」
 礼太郎が思いの外はっきりとそう告げたので、男は少し考え込むようにして黙った。

「食われても知らないよ」
 何か話せない事情があるのかも知れないと、礼太郎が口を挟む前に、男は声を潜めるようにしてそう言った。ぞくりと背中を駆け上がる感触は、この屋敷を見上げた時の感じや廊下の冷たさに触れた時のそれに似ていた。
「貴方にですか?」
 自分が臆病になっているのがばれるのが嫌で誤魔化すように言った言葉だった。ふざけでもしないと、この得体の知れない不安に侵食されてしまいそうで。
 が、男は真摯な話を半ばで茶化されたのにも関らず、怒りもせずに笑い出した。本気で楽しそうな、というか呆れてものも言えなかっただけかも知れないが、堪え切れずに体を震わせている。

「面白い人だね。お客人、せいぜい気を付けて」
 ひとしきり笑った後、男はそう言って背を向けようとした。
「ちょっと、あの!」
 礼太郎が呼び止めるとは露ほども思っていなかったらしく、不思議そうな顔で男は礼太郎を見た。
「貴方は、誰なんですか」
 客が家人に問うには不躾な質問だとは十分にわかっていた。が、訊かずにはいられなかった。このまま、ずっと訊きそびれてしまうには、この男の言葉は謎が多過ぎた。

「……浅葱(あさぎ)。じゃあね、八木君」
 恐らく名前なのだろうが、それだけ答えるとさっさと男は行ってしまった。少し遅れて後を追うも、廊下の角を曲がったところで見失ってしまう。どこかの部屋に入ったのかも知れなかったし、彼なら消えてしまったのでも何故だか納得できてしまいそうな気がした。

「あれ……」
 八木君、と彼は礼太郎の名を呼んだ。
「聞いていたのか? あの部屋の前で」
 この屋敷に来てから、礼太郎が自分の名前を名乗ったのは、初子の部屋でのただ一度きりだ。道理であの間の良さは、と腑に落ちる。
 が、腑に落ちないこともあった。彼が、立ち聞きをする必要性。ただの他所から来た客への物珍しさだけでそんなことをしたとは思えない。

「危険……か」
 考えながら部屋に戻った礼太郎を、すっかり冷めてしまった夕餉の膳が不機嫌そうに乾いて待っていた。

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