小説『雲影の葬』
作者:雪篠(A BLANK SPACE)

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「あの獣(けだもの)は、初子の母親や僕の母親以外にも多くの女を孕ませた。ただし、正妻の子は初子だけだ――この家の子は」
 獣と浅葱が罵ったのは先代の当主、つまりは初子の、いや、二人の実の父親のことだ。
 市ノ瀬の家はそもそもは初子の母方の家なのだと浅葱は続けた。兄妹といえど腹違い、入婿である先代が他の女に産ませた子では、歳も性別も無視して初子が当主に収まるのも何らおかしくはない。ましてや正妻が子を生すよりも早くに生まれた子供になど、この家の中に居場所があろう筈もない。

 先代の当主の一粒種――礼太郎は、女中が初子のことをそう称したのを思い出した。もしかするとこの家に仕える者達の間では、好色な入婿などではなく、この家の血を引く初子の母親こそが真に主だったのかも知れない。



「君はすぐに顔に出る」
 浅葱がからかうようにちらりと笑った。一度、礼太郎の目をまっすぐに見て、それからゆっくりと目を伏せ視線を外す。
「君は頭がいい、きっとほぼ正確に事情を把握したんだろう。それが、君の優しさから来るものだというのも、僕には十分よくわかる」
 けれど、それは残酷だよ、と。浅葱の瞳が言外に、しかし、恐らく言葉にするよりずっと確かに告げていた。

 謝罪する言葉を先に封じられた気がして、礼太郎は口を開くことができない。黙っていればいるほどに罪悪感が生じて蓄積していくのを、礼太郎は無神経な自分への罰だと感じた。

「気に病むことはないよ。きっと僕は、思うほどに不幸ではない」
 そう言って笑おうとした浅葱の表情が、ゴホッという厭な咳とともに苦痛に歪む。上体を折って膝を突きそうになる浅葱に、大丈夫ですか、と礼太郎は思わず駆け寄って反射的に身体を支える。その瞬間は罪悪感も何もすべて掻き消えていた。

 大した事じゃない、そう言った浅葱の声は幾分か弱々しい。医者を、と礼太郎が立ち上がりかけたのを、浅葱は袖を掴んで強く引き止める。
「平気だ……ちょっとね」
 掴んだ袖を頼りに礼太郎を支えにするようにして身体を起こし、ゆっくりと呼吸を整えると浅葱は安心させるように、そう言って笑ってみせる。
「どこか……何か、病でも?」
「そんなところかな」
 もう平気だというように、浅葱は立ち上がり礼太郎から離れる。
 夜の闇に消えていく浅葱の後姿を、礼太郎は黙って見送ることしかできなかった。

   *   *   *

 眠れなかった。眠ればまたあの夢を見そうで。そして、浅葱の明かした事柄が気にかかって。
 果たして、あれはすべて真実なのだろうか。そう礼太郎は天井を睨みながら考える。二人の話は食い違っている。浅葱の話の通りだとすれば、噛み合わない話の訳も一応納得のいくものになる。とはいえ、礼太郎にはそれでも初子のあの反応は、やはりそんな理由で嘘をついたのとは違うように思えた。

 くそ、と前髪をかき混ぜる。本当は首を突っ込むべきことではないし、礼太郎にはどうでもいいことの筈だ。どうせ空さえ機嫌を直せば、すぐに後にする場所のことだ。好奇心はあれど、他人の家のことにこうまで立ち入ろうとするほど自分は愚かだっただろうか。

 人形のような少女、それとは異なる美しさを持つ男。礼太郎は、最初この二人がどこか似ていると思ったことを思い出した。……血が、繋がっていたからか、そう思ってから礼太郎は苦笑した。自分は、既にあの男の話を信じているのではないか。

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