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初子は何故あれほどまでに浅葱の存在を否定するのだろう。もし仮に、本当にその存在を知らないのだとしたら……そうだとしてもあの反応はいささか腑に落ちないものがある。
もし礼太郎が無関係の人間から、お前には病気の兄がいる、と告げられたら、まずは何の冗談かと笑い飛ばし、それから相手の態度によっては、もしや……と少しは不安になるだろう。自分の知らない兄弟がどこかにいるというのは、ないようでいて、まったく有り得ない話ではないのだから。
「君は馬鹿だ」
礼太郎がそんなことを思い悩んでいると、背後から呆れと苛立ちとが混じった声が掛かった。声の主は振り向かなくともわかる。
「貴方は、いつでも唐突に僕の前に現れるんですね」
礼太郎がどこか感心めいた調子で言うと、浅葱は一瞬鼻白む。それから、場違いな質問だというように嘆息した。
「そんなのは、君が考え事をすると周りがまるで見えていないっていうだけだ」
浅葱は苦笑混じりに答えて見せたものの、そんなことはどうでもいい、と頭を振った。微かにだが珍しく焦燥の色が見て取れる。礼太郎もきちんと向き直って、どうかしたんですか、と二、三瞬いた。
「浅葱さん?」
しっかりと顔を見る。何だか嫌な胸騒ぎがした。どうしてか、蔵の中の壺が脳裏に浮かぶ。
不意に煽られた言い知れぬ不安を、どうにか振り払おうと、礼太郎は浅葱の答えを待った。その答えが決して不安を晴らすものではないと、奥底では直感していた。それでも、沈黙は不安も恐怖も無限大に跳躍させる、恐らくは、それよりはどんな言葉だとしても救いとなる筈だ。
「約束してくれないか」
何かを言いよどんで、迷った挙句に、やっと浅葱は言った。それはひどく頼りなく、けれどひどく強制力を持った言葉に思えた。何を、とは問わずに礼太郎は無言で頷く。
「話が終わったら、すぐにこの家を出て行ってくれ」
「……!」
「村の、この家からは一番遠くにあたる村外れの小屋に、羽田という老人がいる。僕の名を出せば、君の帰り道への案内くらいはしてくれるだろう」
礼太郎は息を呑んだ。初めから彼は礼太郎がこの家に留まるのを良しとはしなかったが、それでもこの言葉はあまりにはっきりとした、そして性急な退去命令だった。
「僕は君に、ここにいては危ないとそう言ったね? そして、君は危険の理由を聞かなければ納得できない」
「はい。一体、この家に何があるというんです! いえ、何がいると? ここにいるのは……」
言い掛けた礼太郎を浅葱の沈黙が制した。彼はただ静かに目を伏せただけだったが、それだけで礼太郎の言葉を止めるのには十分だった。礼太郎は浅葱の言葉を待った。
「あの獣(けだもの)が死んで以来、ここにいる人間は、僕と初子だけだ」
浅葱の科白に、礼太郎は瞬間言葉を失う。何を言って……とだけようやく声を絞り出すが、その声も掠れた。そんな馬鹿なと心では思うのに、何故か浅葱の言葉を笑うことができなかった。
「じゃあ、あの人達は! だって、何人もの人が働いて……」
口の中が変に渇く。浅葱がゆっくりと首を横に振った。じゃあ、と礼太郎が何度か力なく繰り返す。それ以上の言葉が続かない、助けを求めるような目で浅葱を見る。