【4】我こそ主
晩夏の朝は秋の前触れのような涼しさを乗せてやってくる。
ちょっと、寒い。
加奈江は肩をふるっと震わせる。
それもそのはずだ、加奈江も政も全裸のままで布団の上に横になっていたから。
辛うじて腰だけは掛け布がかかっていたけれど、身を寄せていなかった方の肩は冷えていた。
うつぶせになってすうすうと寝息を立てる彼に、緊張感はかけらもない。
肩までタオルケットをかけてやり、指で髪を、顔を撫でた。
少し汗にまぶされた髪は寝癖がついている。また髪型がまとまらないとぶつくさ言いそうだ。
加奈江は額に唇を寄せ、次にぺろりと、鼻先を舐めてみた。
ぴくりとも動かない彼は夢の中にいるのだろう。起きる気配はない。
隣で熟睡されるのはうれしいもの。
大好き。政。
彼と暮らし始めて、あらゆる『うれしい』が積み重なっていく。
彼女はもう1枚のタオルケットを身体に巻いた。
膝を上げて身を起こした時、シーツに散った染みが目に入った。
わずかではあったけれど、地が白なのだから見間違えるはずもない。
昨夜の名残の、乾いた血の滴。
彼に抱かれた証だった。
そう言えば、身を離した時、政は言った。顔をゆがめて、心底済まなそうに「痛かっただろう」と。
本当に血がでるんだ……。
身体の最奥に残るのは、強い鈍痛と何かが挟まっているような違和感。
彼の存在を伝える名残。
初めて肌を重ねた時とは違う、本当に彼と結ばれたのだという思いがひたひたと身体中に広がっていく。
胸元に目をやって。ところどころに花びらが散るように、赤い斑点が浮いているのに気づいた。
彼が何度も口を寄せた跡だ、ここだけじゃない、おそらく体中に花が咲くように付いている。
彼が愛してくれた自分の身体が愛しい。
夜の記憶を追うように指先で辿って、そっと肩を抱きしめた。
そして縁側に目を向けた。
いくらご近所さんがうんと離れた丘の下にいるとはいっても、蚊帳を張っていても、窓を開けっ放しは無防備すぎるわね。
気をつけなくちゃ。
庭先には夫力作のかかしが誇らしく立つ。今のところ雀たちは来てないようだが。
効果が長続きしますように。
そして……あれは何?
加奈江は身を乗り出す。
ぽこんとまんじゅうのように存在する物体が目に入った。
縁側には香箱座りをしている、キジトラの一匹の猫だった。
細い目をしている猫と細い目の加奈江が真正面に目が合う。
蚊帳越しに見る猫の毛はぼさぼさと割れていて、全体的にごつごつとした印象を与える。
しなやかさより無骨な、北海道土産の木彫りの熊のような感じの猫は、どう見ても若そうではない。
緑色の目を眇めて賢そうにこちらを見てはいるけれど、案外何も考えていなさそうで。
あなたは、誰?
つい身を乗り出した彼女は、顔面から畳に突っ伏した。
可愛らしく「きゃあ」と叫べればよかったのに、カエルがぺしゃんこになるような声で、自分で出しておきながら赤面する。
彼女の腰には、夫の腕がしっかりと巻き付いていた。
「おはよう」と言う声は掠れてガラガラだ。
やだ、いつから起きていたのかしら。
どうして私、気配に気づかなかったの。
――さっきの、気づいてないわよね。
もじもじしながら、加奈江も小声で「おはよう」と返した。
「身体、冷えてる。寒かったか?」
横倒しに抱かれ、腕の下に巻かれて。
背中ごしに伝わる彼の肌の温かさから、やはり冷えていたのかしらと思った。
「うん、でも平気」
「ううん、良くない。女の子は冷やしちゃいけない。温めてやるよ」
何故そんなことばかり知ってるの?
まったく遠慮なく素肌を撫でる彼は、昨日までの遠慮はどこへ行ったのだといった風だ。
肩をすくめて逃げようとしても、深く絡まり合うだけで、結局、相手の「その気」を削ぐことになってない。
観念して、加奈江は彼の胸元へ身をすり寄せる。
「何見てたんだ」
キスを乗せて問う彼に
「猫がいたの」
彼の顎をさすりながら加奈江は答えた。
「猫?」
「ほら、あそこ」
促された先に、まだ香箱座りしている猫まんじゅうがいた。
「ああ、あいつね」
彼は小さく笑う。
「知っているの」
「いや、昨日――いや、おとといだな、外でかかし作りをしていたら、ほとほと歩いて来て、あそこに座って。昨日の朝にはいなかったから、ねぐらに戻ったと思ったんだが、また来たんだなあ」
「前からいたのかしら」
「どうだろう、俺もいつもここにいたわけじゃないから、たまたま時間が合わなかっただけかもしれないけど、見たのははじめて。カナは?」
「私も知らなかった。でも、我が物顔でいるわね」
「そうだなあ」
「先住人だったりして」
「そうかもな、猫にすずめにたぬきにキツネ。退屈しないじゃないか」
「畑にとっては危機的状況ですけど」
「ううーん、そうだな、かかし諸氏にがんばってもらうか」
はたして、役立ってくれるのかしら?
口には出さずに内心で加奈江は思った。
のどかな犬も食わない夫婦の会話中も、政の愛撫の手は止まることはない。
知らず、吐息が甘くなるのを抑えられなくて。
「つ、政君……」
「ん、何」
「もう朝だし」
「うん」
「起きなくちゃ」
「起きてるだろ」
「そうじゃなくて」
言い募ろうとして、つい嬌声を上げてしまった、耳朶を甘噛みされたから。
どうしてこちらの声は模範的なの!
思って自分で赤面の種を作る。
「そこはだめ」
「ふーん、いいんだ」
「違うの、そうじゃなくって」
「でもいいんだろう」
と押し問答する。
「朝ごはん作らなきゃ」
「うん、カナが作るごはんは美味いからな、食べたい」
「だ、だから起きるから!」
「けど、俺、今はカナがいい」
「ええええー!」
誰が「待つ」なの、うそつき!
どうしたらいいの、頭を廻らせて縁側の猫に目が行った。
助けて、この人を止めて!
猫に助けを求めても無駄である。
彼の肩を押し返す手の力が緩み、求めるように伸ばした手を、彼はしっかりと握り返す。
「うれしい」なんてどうしても口にできなくて、けれど間違いなく快感で。
喉から漏れる喘ぎを押さえることができない。
加奈江はこのまま、夫に身を任せた。
ふたりがやっと夫婦らしい時を過ごした日を境にキジトラは居座り、『我こそこの家の主人』というように尾上家に君臨した。
足裏の肉球は四本足のどれもが濃い紫色で、
「まるで小豆のお豆さんみたいね」
と田舎の祖母から送られてきた小包を開けて、中に入っていた小豆の豆と見比べながら言う加奈江に、猫はにゃあと返した。
「アズキ?」
「にゃあ」
「あなた、アズキっていうの?」
「にゃあ」
「ですって」
真顔でいう妻に、「そんなわけないだろう」と軽口をたたく彼こそ、楽しげである。
以来、アズキと名付けられたおじいさん猫は、今までどこで過ごしていたのだろう、とふたりが首を傾げるくらい、縁側で、居間で、自分の居場所を主張した。
書道部屋に入らないのなら、と政は言い、元々動物には抵抗がない加奈江も猫の為の餌場を外から台所に移したり。
居間にはアズキ専用のザブトンが用意されたりして。
若夫婦と猫との三者の生活は、かくして始まった。
加奈江が密かに期待していた、先住民を追い払う役目を年寄りなりにこなしていたけれど、せっかくならして種を蒔いた土の上でごろごろと寝転がられるとまったく意味ないじゃない、と肩から力を落とした。
いけない、いけない、と加奈江は気を取り直す。
彼が見ていたら、また日記に描かれてしまうわ。
ちらり、横目で見た夫は新聞片手に煙草を燻らせている。
ああ、よかった、とつっかけをかたかたと鳴らして裏庭へ向かう妻は気づいていなかった、彼の手元にはしっかりと、絵日記とえんぴつが握られていたことに。