小説『ゆるやかに流れる水の流れに添い・2 カナとアズキとツカサとコムギ【続きます】』
作者:初姫華子(つぼはなのお知らせブログ)

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◇ ◇ ◇

加奈江への指導はきっちり10分で終わった。

この長さは良いのか悪いのか、迷うところだけれど、おおむね可と言われた――と解釈をして。後はさくさくと書き進めれば良い。

ノートや資料を片付けている彼女の背後から、「今から30分の休憩に入ります」の声がする。それに合わせて、ガタガタと椅子を軋らせて立つ人の足音が混じった。

三々五々人が散らばっていく中、「新生活は、どう」と声を掛ける陽気な声。

相手は言わずと知れた武だ。

私に言っているのよね。

加奈江は向きを直してぺこりとお辞儀をし、「おかげさまで」と答える。そして。

「お祝いの電報を、ありがとうございました」と言い添えた。

政からも頼まれていたのだ、ひとこと礼を伝えてくれと。

ふと見回してみると、室内には人は加奈江と武、そして他の先生たちと談笑しながら扉へ向かう政の父ぐらいしかいない。

蜘蛛の子を散らすように人がいなくなってしまっている。

私も退散しなくちゃね。

腰を浮かせた彼女に、武は言う。

「いいんだよ、政君とは子供の頃からの付き合いだし。彼も所帯持っちゃったんだね、まだまだお子様だと思っていたのに、月日が過ぎるのは早いや。親があーんな人なのに」

と、顎をしゃくって慎を見やった。

見られた慎は足を止めた。

「そうだ、尾上先生は義理のお父さんになる訳か。世間は狭いねー。うーん、やっぱり君を尾上君と呼ぶのは抵抗あるなあ、『加奈江君』とか『カナちゃん』じゃダメかい?」

武はカナカナと連呼する。

まるで自分がヒグラシになったようで据わりが悪い。

はあ、とも言えず、固まっていると、

「息子の嫁を相手にからかわないでやってくれないか」

と、慎が助け船を出した。

むすこのよめ。

急に結婚したんだという実感が湧いてきて、加奈江は妙な気分になる。

「あんまり名前を呼び捨てにすると、あれが知ったら気分を害する」

「それはちょっとイヤだな、政君、怒ると恐そうだからねー。じゃ、やっぱり、旧姓のままでいいことにしてくれる?」

ね? と問われると否もない。

こくりとうなずいて退散しようとするが、御大二人に挟まれ、失礼しますの一言を言うタイミングがない。

躊躇する彼女に、武は言う。

「どう? 政君。やさしいでしょ」

「はい」

これは迷わず返答できた。知らず頬が緩んで、笑みがもれた。そして、急に照れてしまう。

「そして君は、今のうちから家計のやりくりに余念がない。先生ーっ。あんたんところは良い嫁をもらったねえ」

加奈江を飛び越して後ろに立つ慎に武は声を掛けた。

「まだ学生なのに健気じゃないの。あんたは援助のひとつもしてやっているのかい?」

「君が心配することは何ひとつないよ」

これは本当だ。

地道に、地味に、ささやかになるはずだった二人の門出は、なんだかんだで予算も出費もうなぎ登りになった。

「こんなハズでは」と、やはり加奈江は頭を抱えた。

結局のところ、政は良いところのお坊ちゃんで、加奈江はお嬢様だった。世間知らずなふたりが考える『慎ましい生活』は、世間一般の庶民が考える規格からは飛び抜けて贅沢なものだった。

思い出作りの結婚式、ふたりで暮らす為に用意された古びてはいるけれど庭付き一戸建ての家。

どちらもそれ相応にお金がかかった。

あれもこれも親孝行のうちとのんきに構えたふたりは、増える一方の領収書の金額を足していって求められた最終的な額面を見て言葉を失った。さすがに反省し、節約を心がけはしたけれど、息を吸って吐くだけでも人はコストがかかる。

今は両家の援助でよちよちと新生活を始められてはいるが、慣らし運転どころのさわぎではない。おままごとの新婚さんと揶揄されても仕方ないくらい恵まれている。

庭に畑を作って、わーいと喜んでいる場合ではない。

自分たちは普通の生活をしたいだけなのに、何故お金がかかるんだろう。

お財布の中にお金が残らないのはどうして?

親がかりの生活から抜け出せるのはいつのことなのか――

気持ちが黄昏れた時、「それで」と武は加奈江に声を掛けた。

「君は、卒業後の進路は決めたの」

は?

彼女は虚を突かれて黙る。

世間一般的には主婦になった彼女は、女性が考えるゴールにたどり着いている。そこから先もこれからもない。

「女の人は出産とか子育てに時間を割かれるから、余計にゆとりをもたせないとね、ああ、今のうちに家族計画も立てておくんだよ。男任せにしないで自分でも考えておくこと」

か、家族計画って、いったら、あの……

加奈江は耳の後ろまで真っ赤になった。

「何赤くなってるの。とても大切なことでしょう。なんだかんだで子供は手もお金も時間もかかるからねえ。まあ、子供がいない僕が言うのも何だけど? 子供は天の授かり物とは言うけれど、今はある程度は自分達でバースコントロールできるのだし、生活に余裕があるなら今すぐ作ってもいいんだろうけどさ。きちんと、しておきなさいよ」

あー、とも、うー、とも口にできず、さりとて夜の生活に触れることは人には口外できない。

相手は、政がニガテだという武だ。政の父も側にいる。

二の句が継げないでいると、慎が横から口を挟んだ。

「武君、あまり苛めないでやってくれないか。嫁が困っている」

よめ。

義父に何度も言われると、これまた照れる。もう、どう顔を作っていいかわからない。

「進路にしてもそうだ、君の細君と比べること自体間違っている」

「奥様……いるんですか」

つい口にしていた。

「いるよー。当たり前じゃない。僕と同じ教職だよ。もっともカミさんは大学に残れなかったけどね」

武はあははと笑う。


「ま、立ち入ったことを言った僕も悪かった、ごめんね。話を戻すけど。だから、女性が職を持ったり目標を定めて希望通り生きる難しさは、彼女を通して教わったつもり。専業主婦の生き方を否定するものじゃないよ。けれど、早くに家庭に入って外へ出ないのもどうかと思ってる。――君は、将来について、夢や未来の展望はないの」

いきなり人生論になってしまった。

武が言う言葉は口調があっさりしているけれど、内容は重い。即答出来ない。

まごついていると、それはわかっているよ、と言うように武は口元だけで笑って続けた。

「僕は長く大学に居て、高等教育を受けて、今は教える立場にいる。人より何かを、より多く、教えとして授けられた者には、それなりの責任を伴うものだと思っている。何へかというとね、世間様に。どうするかというとね、自らの知識を還元するということ。別に一流企業に入ったり、役人、政治家や公僕になれとは言ってない。家庭を守り、育てる人も必要だ。けれど、学があり、才気立つ人は他の人へも貢献し、相互に高め合う手助けをする義務がある、ってのが僕の持論なの。
他人は、僕が指導する生徒を選り好みしてると言っているようだけど、全くの無作為で任された生徒たちが自ら立って成果をあげて、それなりの人物になってくれただけのこと。彼らに共通していたのは相互扶余の精神が少しばかり秀でていたということだね。
今の君は人生のゴールに着いたと思っているのかもしれないけれど、僕に言わせれば、もったいない。高等教育を受けた数少ない女性なのに。他に君の才を活かせる場があるかもしれないのに、次は考えていないの、と問題提議したわけさ。
考えてなくても、まったく問題ないんだけどね、人それぞれだから。でも、政君、家庭に入れとは言ってないんだろう? どうなの」

「君の細君を基準に女性を見ては相手も困るだろうに」

慎は言う。

「それじゃ、慎先生はどう思うの。教師としてでもいいし、義父の立場でもいいよ」

それは、ぜひ聞きたいところだ。

加奈江は義父の方へ身体を向けた。

「一般論とはかけ離れるかもしれないが」と前置きして慎は言った。

「おおむね、武先生の意見に同意するね」

驚いた。

加奈江はぽかんとした顔で義父を見た。

男性は、嫁したら家に入り、家族に尽くすのが女だと思っていたけれど、武も慎もそれでいいのかと言っている。

武はいい、慎は――彼の言動は、言うことと現実が伴っていない。

「私は――」

加奈江は混乱した。

「ああ、いけない」

ぴしゃりと武はおでこを叩く。

「また自分の意見だけ言ってしまった。いつもカミさんに叱られるんだ、持論の押しつけはやめろって」

あまり気にしなくていいよ、と言い、武はいつものようにくらげの論法で唐突に話題を切った。

「そろそろ時間だから、再開しようかな」

加奈江は今度こそ、と席を立った。

「これから仕事だあ」と言いながら、うーん、と伸びをした武に、慎は言う。

「少し、中座する。すぐに戻るから、始めておいてくれないか」

わかったよ、の応える武の声を背後に聞きながら廊下へ出た息子の嫁に、舅は声を掛けた。

「5分程時間をくれるかな」と。

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