【3】 舅と嫁
政の父に案内された先は、扶桑館の研究室だった。
教授格の私室や研究室へ行くのは初めてのことだった。
武は大変気ままで、日によっている場所が違う。ありがたいことに消息を掲示板にマメに残し、その通りに行動してくれたので困ったことにはならなかった。
政の父とふたりきりになるのも初めてだ。
少し口元を引き締めて勧められた椅子に座った。
「すぐに戻らないといけないから、茶も出せなくてすまない」
「いえ、そんな……」
加奈江は恐縮した。
けれど、他の人にはそうは見えないのだろうな、と自分で思った。
「あれは、君に良くしてやっているだろうか」
あれ、とはもちろん、政のことだ。
さっき武に入れられたチャチャのおかげで、顔の赤みは消えていない。頬に更に血の気を上らせて加奈江は小さく頷いた。
「そうか」と短く答える舅は、目尻を下げて視線を落とした。
本当にうれしそうな顔をする。この仕草は政とそっくりだ。
彼は父親との類似点を上げられる度、不機嫌になるけれど、仕草が似通うふたりが、嫌い合っているわけがない。
彼は父親がとっても好きで、今も頼りにしている。
親について多くを語らない夫だけれど、親子の繋がりを感じた。
「君をここに呼んだのは他でもない。論文用の筆記具は用意しているのかな」
は。
「筆記具ですか?」
話がいきなり変わってついていくのが大変だ。
――ああ、今は武先生の審査中なのだっけ。すぐにも戻らないといけないのよね。
加奈江は即答した。
「はい。中学に入学した時に買ってもらった万年筆が」
筆箱から一本の万年筆を取り出す。女性の手に合うように作られたそれは、細身で丈が短く、細い字が書ける。銀色のキャップの縁に花の絵が刷り込まれ、ペン本体は加奈江が好きなピンク色だ。
当時、同級生は皆、似たような万年筆とボールペンのセットと、腕時計を持っていた。
学習雑誌の年間購読を予約するとついてくる特典の中にも万年筆は必ず入っていた。
買ってもらった万年筆と、おまけの万年筆。書き比べてみたけれど、ペン先が紙をカリカリとひっかく感触はどちらも同じように思えて、正直、違いが分からなかった。
卒業論文は鉛筆書きで、というわけにはいかないからボールペンか万年筆を使うことになる。
弘法筆を選ばす、と言うけれど、私には無理、と加奈江は思う。
ちょっとした書き味の違いは、長文を書く気を削いでしまう。
ボールペンはボテがたくさん落ちて紙を汚す。
なら、万年筆となると……。せっかく買ってもらったペンは大学4年生になるまでろくに使おうとしなかったから、まったく言うことをきいてくれない。書きにくくて仕方がない。けれどこれを使うしかない。
手元で万年筆をくるくると回す彼女の様子を見て、舅は言った。
「女学生なら皆持っているものだね。失礼だけど、それは長文を書くには適していないと思うが……。どうかな」
「仰る通りなんです」
加奈江は肯定した。
舅は一回うなずき、机の引き出しを開けて何かを物色する。うん、と納得しながら嫁に差し出したのは、一本の万年筆だった。
まるで真っ黒な葉巻のようだ、と加奈江は思った。
黒い本体に、キャップに添って金の輪が三本、ぐるりと取り巻き、金具の金と相まって高級感を醸す。
キャップの頂上には山の上に降り積もったような白い星がアクセントになっている。
政も一本持っていたから名前ぐらい知っている、これは舶来品の高級万年筆だ。
「君に。持って行きなさい」
「そんな!」
舶来品は全部が高いわけではないけれど、万年筆と言えばこれ、と筆頭に来るブランド。もちろんとても高い物だろう。
「受け取れません、こんなに高いもの……。それに、先生が困ることになりませんか?」
無意識のうちに、政の父を『先生』と呼んでしまう。
言い直すのも変な気がして、そのままにした。
慎は、少しさびしそうな顔をし、微笑する。
「仕事柄書き物ばかりしている私にとって、万年筆は大切な仕事道具だからね、予備はいくつか用意しているよ。だから、これを一本君に渡しても、痛くもかゆくもない」
さあ、と促され、半ば強制的に持たされた万年筆を手にすると、不思議と手に馴染んだ。
彼女の内に書いてみたい、という欲求が起きる。
「試し書きしてみるといい」とノートを差し出す舅の言うがまま、ペン先を下ろし、一文字を書き始めた。
全然違う。
持っている万年筆とは、紙の上の滑りや手に馴染む感覚が段違いだ。
するすると滑るように文字が流れ出る。
紙の摩擦を感じない……。
気がついたら、一文字のつもりが、ノートいっぱいに字を書きつけていた。
「わかったようだね」
慎は満足したようにうなずいた。
スクリュー式のキャップを閉めて、太い軸のペンを両手で持った加奈江は視線を落とした。