◇ ◇ ◇
自宅までの帰宅の道程を、加奈江は思い出せなかった。
武からの質問や慎との語らいがふつふつと浮き上がって、つい考え込んでしまったからだ。せっかく集めた特売のチラシも役立てる機会がなかった。
肉屋では、従業員があれこれ言っているのはわかっていたけれど、言っている言葉が耳に届かず、出された包みを受け取って「え?」と思う始末だ。
でん、とカウンターに乗る温かい包みは、自分と政ふたりで食べるにはあきらかに多い。
店員は、だから何度も聞いたのに、という顔をしている。
注文し直すのも面倒で、そのまま受け取った。
食卓へ乗ったコロッケの山を見て、政は絶句した。
「これ……ご飯、いらないだろ?」
いくら好きでもこれは多すぎだよ、と言いたげだ。
「ごめんなさい……」
謝る加奈江は、しかし心の半分はここにない。
「まあ……すぐ傷むこともないだろうし、明日ぐらいまでは保つだろうし」
と言いながら、「いただきます」をし、かなり無理をしてお腹に収めた政は「これ以上は入らない」と箸を置いた。それでも買ってきたコロッケは大半がなくなっていた。
「ごめんなさい」
加奈江は再度謝った。
「いや、いいって。嫌いなものだったら正直きついけど、好物ならわりと入るから。でも、しばらくはコロッケは……いいかな」
ふう、と息を吐いて、政は言った。
「今日はどうだった」
「どう、って」
「卒論の指導だったんだろう?」
「あっ、ああ、そうなの」
「お前……変だな、何かあったのか?」
「ううん、何でもない。ぼーっとしちゃって。あのね、ちょっとね」
「うん」
「びっくりすることがあったのよ」
「うん?」
加奈江は、発表の時に、『ギャラリー』がいたことを話した。その後に出された、『人生の宿題』には触れずにおいた。なぜか、口にするのがはばかられたからだ。
「うわー」
政は呻いた。
「それは災難だ、何のゴーモンかと思うぞ。居合わせた奴に同情する」
「ね。呆けてしまうのもわかるでしょ」
これでコロッケの言い訳ができる。少し無理がある? と思ったけれど、わざとオーバーに言ってみた。
「うん、それはわからなくもない。しかも親父もいたんだろう?」
「うん、そう」
「大変だったな」
そうそう、と加奈江は普段よりオーバーに首を縦に振った。
「でも、コロッケの数を間違えるようなことかなあ。加奈江らしくもない」
「そ、そう?」
何か問うような目をして見る夫に、シラを切った。
「私だって全てをあなたに見せているわけじゃないもの。動揺が後を引くこともありますって」
「そうかあ」
「そうなの」
内心の動きを出さないようにつとめる、しらっとした目と、腹をさすって苦しそうにしている目がぶつかる。
次に出るのは小さな吹き出しと笑いだ。些細なことでも笑い合える私たち。
加奈江は、初めて彼と食卓を共にした日を思い出す。
いつもひとりで食べていると言っていた彼。
自分なら、彼ひとりの食卓にはさせない、と思った。
他愛ない話でもいい、会話を乗せて共に食し、笑い合う家庭を作りたいと。
武と舅が出した宿題は、今の加奈江には重くてすぐに結論が出せそうにない。この場で、政に今日の出来事を話せないくらい頭の中はごちゃごちゃしていたから。彼女には珍しく言葉を飲み込む。
けれど――。先を急がなくてもいいのではないかと思った。
だって、家族と過ごす日々は、いつも楽しいことばかりではないし、時には喧嘩して顔を合わせたくないという時もある。
彼とだって――
そうならないとも限らない。
今の私にできることは、ひとりで過ごす時間が多かった政との間に、加奈江が知っている普通の家庭の時を少しでも多く伝えること。
私の人生の目的を果たすのはその後でいい。
ぽりぽりと、何かをかじる音がするので振り返って見ると、新聞紙を敷いた上に置いたエサ用の皿から、アズキが煮干しを食べていた。
平和だ、と加奈江は思った。