今日は一番風呂は政が使った。
遠くで弾ける風呂場の水音を聞きながら、加奈江は早速譲ってもらった万年筆を筆箱から出した。
まるで魔法のように書けたペン。
すらすらと、滑らかに紙の上を滑ったっけ。
加奈江は書き味を思い出すように下書きの一文をノートに書きつけてみた。
うん、やっぱり書きやすい。
書きやすいのだけど……。
ノートを2ページ、3ページ書き進めてみたところで、違和感に気づいた。
ペン軸が、太い。
そして、重い。
この感じ、私、知ってる。
そうだ、あれは政に誘われて初めて大きな筆で大作を書いた時、道具に翻弄されて力の入れどころがわからなくて困った時に似ている。
手の指に吸い付いて、ぴたりと動かないところは、手持ちの万年筆にはないところ。滑って疲れて親指が痛くなることはないけれど、この重さは別の意味で疲れる。
そして、もうひとつ、気になったことはキャップが本体によくはまらない。しっかり差したつもりでも、書き進めている内に、キャップがずれて、ころんと落ちた。
コンコンと床を叩く音にアズキが反応して、タンスの影からたたたーっと駆けてきてばっと飛びつき、前足で転がしてしまう。
「やめて、それはおもちゃじゃないの!」
加奈江はアズキの手からキャップを取り戻し、ペンの尻に差し、書き進め。
そしてキャップは落ちてアズキが駆けてきて転がす。
はめる。書く。落とす。転がす。取り戻してはめる。そして書く……。
何度か繰り返した頃に、政が「上がったぞ」と髪をタオルで拭きながら居間へ入って来た。
「何アズキと遊んでいるんだ?」
政は呆れたように言う。
「だって、この子がキャップを持って行ってしまうんだもの」
ほら、と言って見せた万年筆を見せる。政は目を丸くした。
「モンブランじゃないか。お前、持ってたっけ」
あ。話してなかった。
「ごめんなさい」と前置きして彼女は言う。
「ううん。持ってない。今日ね、お義父様に頂いたの」
「だろうな、俺が持っているのより上のグレードだから、女性が持つには変だと思った」
「え? 上って?」
「たしかこのラインでは最上級品だよ、親父がお気に入りで、何本もペン先の太さ毎にスペアを用意して、家と学校に置いていた」
ちょっと待ってろ、と言い置いて政は机の引き出しを2,3回引っかき回して一本の万年筆を持って来た。
黒い軸に金の輪、白い星。同じデザインだ。
「ほら。太さが段違いだろう」
「……ほんとだ」
義父から譲られた方を親指とすると、政が所有している方は小指ほどにも太さが違う。
天冠の白い星と黒い本体は同じなので、区別がつかなかった。
「西欧の、成年男子の手ならぴたりと合うんだろうけど、カナみたいに小さくて華奢な手じゃ大きすぎるんだ。クソ親父、何考えてるんだろうな」
ほら、と政は彼女の手を取り、手の平を合わせる。
たしかに。
指の関節ひとつ分くらいは大きい彼の手と、人から身体の割には小さいと言われる私の手。
彼や義父くらいの手の大きさの人なら収まりが良いのだろうけど、私には大きすぎるのね。
がっかりして加奈江はこぼす。
「残念。すごく書きやすかったから……。せっかくの頂き物なのに、それも残念」
「うーん。そんなに気に入った?」
「うん、書き味が滑らかでね、持つ時にペンをしっかり握れたの」
「うーん」
政は再度引き出しをひっかきまわし、ひょうたんみたいなインク壺を取り出した。ツボのキャップには天冠と同じ白い星がついていた。キャップを取り、ペン先をツボに突っ込んで万年筆のおしりをくりくりと回し、加奈江が使っていたノートの端に軽く試し書きをする。
そして、「これ、使ってみろ」と言って自分のペンを差し出した。
ふたまわりは細い軸のペンは、確かに義父からもらったものより更に持ちやすかった。
書き味も、悪くない。
しかし……。
「線が、太い……。ペン先に埃か何かはさまっているのかな」
「違う、違う。それは太字で元々がそうなの」
「え? 太いとか細いとか、いろいろあるの?」
「うん。あるんだ。そうか、軸は俺の方、ペン先は親父の方がいいのか。今度の週末、文具店で見つくろってみるか」
「えーっ。いい、いい。気をつけながら書くから。そんな勿体ないことしなくていい」
「けど、持った時の感覚は大切だぞ。手は嘘をつかない。カナなら……違いが分かるはずだ」
……確かに。
政は職業柄、加奈江は元々、筆記具には、えんぴつ一本にしてもすごくこだわりを持っていた。芯の削り方ひとつで気分が違った。
「でも、せっかくお義父様から頂いたのに……」
「カナがどうしても、ってことなら無理にとは言わないけど。お前も商売道具になりそうな一本は持っていてもいいんじゃないか?」
政はそう言って、髪を拭きながらちゃぶ台の上にある煙草を一本口にする。
「うん、ありがとう」
彼の父からもらったペンと、彼のペンを見比べつつ、加奈江は言う。
「新しいペンもいいけどお出かけはしたいわ」
「今度の週末は銀ブラと洒落込むか」
「うん」
ふーっと吐き出す紫煙の向こうにいる政は、アズキの顎をごりごり撫でている。
「ああ、いいなあ、こういうの」
加奈江はぽつりと言った。
普段なら、「何が?」と問い返す政は、口を開きかけて止めた。そして、こう言った。
「ああ、いいな、本当に」
柱時計が時を刻む音と、アズキが喉を鳴らす声。
穏やかな時がそのまま続きますように、と加奈江は思った。
今日も明日も、ずーっと先も。