◇ ◇ ◇
加奈江は結婚が決まってからできることは何でもやった。
車の免許取得・運転もそのひとつだ。
新居は交通の便が悪く、バスの本数も少なく、歩いて駅まで行ける距離ではないから車は必需品だった。
政も車の運転はできる。
できるからここを新居に定めたわけだが、初めて彼の運転で奥多摩へ行った帰り。
政の両親がいる前で、加奈江は「私も免許を取ります」宣言をした。
「何で」
問われるのは当たり前だろう、女性ドライバーはまだ珍しかったから。
「運転手はひとりよりふたりの方がいいと思うの。それに」
加奈江は真顔で言った。
「あなたは、運転をしてはいけない人だと思うの」
「そりゃ……俺がヘタだということか?」
反論する政へ、表情を変えずに1回、大きくうなずいた。
言い募ろうとする政の二の句は、同じくうなずく彼の両親を前にして封じられた。
夫婦仲が良くないという政の両親は、加奈江がいると不思議と結束し、将来の嫁を有言無言に弁護した。
当初は結婚に反対した義母も、本人達の意志が固く、本決まりになるに従い、何くれと気を配ってくれるようになっていた。
「人並みのことができないなんて恥ですからね」
と前置きがつくけれど、人は先入観を持って見てはいけないんだ、と加奈江に思わせるに十分だった。
端から見ても深い溝ができあがっている彼の母と政との橋渡しを、私がすればいいんだもの。
そう思ったら、当てこすりともとれる言い様も受け止められるようになっていた。
少しずつ。
何事も少しずつ。
いつか打ち解けられればいいと願って。
元々怜悧な質の加奈江は、スケジュール管理能力に長けるところを発揮し、超多忙な合間を縫って車の免許を取得した。
「免許を取ったばかりで道に慣れてないだろう」とうそぶく政を横に乗せて運転した彼女の腕前は確かで確実で、政を黙らせるのに充分すぎ、「あなたは運転をしてはいけない人」と言い切った加奈江に反論する余地を与えなかった。
政は車の鍵を加奈江に渡し、今では運転は彼女しかしていない。
中古で小さい乗用車だけれど、辺鄙なところへ越してもフットワーク軽く動け、重宝している。
大学に入ってから続けていた筆耕のアルバイトは趣味が実益を兼ねていて、少しばかり稼げていたし、自宅でできたので時間の融通が利いた。
「俺もやろうかな」
書道家である政が言い出すのも自然な成り行きで、実際に応募した、テストも受けた。
結果は不合格。
これは政のプライドを少なからず傷つけた。
「悪く思わないで下さいね」
テストを担当した担当者は言う。
字が上手い人なら誰でもできることではなく、書道家だからといってお仕事を任せられるわけではない、実際、テストで落ちる書道家は少なくないと。
「あなたはここで字を書き潰している人ではなさそうですから、本来の道を歩まれる方がいいですよ」
政はすでに自分のスタイルを確立していたので、画一的な書面に個性ない字を書くのは勿体ない、と不採用の理由を述べた。
「いいことなんだか、よくないことなんだか……わからないな」
落とされたことへ、まだ心の整理がつかない政はこぼした。
「良いことに決まってるでしょう」
加奈江は断言する。
「用が済んだら捨てられる招待状にあなたが一筆書くなんて。そっちの方がどうかしてる」
そうかな、と言う彼はかなりしょげていた。
その夫に、『夫婦生活お断り』宣言をしてしまったのだ、かわいそうかなと思わないでもないけれど。
ふたりが待ち望んでいた時は、残念ながら――加奈江にとってあまり良くなかったので、つい物の弾みで言ってしまった。
「もういや! 二度とごめんだわ! 絶対イヤ!」
口にしてしまった以上、引くに引けない自分がいる。
生活していく分には彼と過ごす時は楽しいんだもの。
同じ部屋で朝も昼も夜も過ごしても、全然疲れない。
他愛ないことで笑いあい、自宅へ帰る時間を心配しないでいっしょにいられる。
結婚前には考えられないような時間を過ごしているんだもの。
一緒に寝起きして、隣に彼がいて、日々話をして食事して、それだけでも充分じゃない?
ホテルの筆耕室へ向かいながら彼女は思った。
そりゃ……。
身体を触られたり、キスされるのは好き。
温かくて、ドキドキして。
でも、それ以上は、やっぱり……ちょっと、ムリ。
頬を赤らめ、何考えてるのかしら、私、と思いながら「今日仕上がった分です」と風呂敷にまとめた納品物を担当者に渡した。
「ごくろうさま」
納品完了の印を伝票に押してもらって帰ろうとした矢先、「水流添さん!」と別の筆耕者に声をかけられた。
「あ、今は尾上さんだっけ?」
加奈江は「そうです」と言うかわりに礼をする。
「今、ヒマ?」
「少しでしたら大丈夫です」
今日は、このあと実家へ寄ることになっている。
義兄が撮影した結婚式の時の写真ができあがったという連絡が来たので、アルバムの受け取りも兼ねて姉とお茶することになっていた。
約束の時間にはまだ余裕がある。
「よかった、急な仕事が入って人手が足りなくて困っていたんだ、手伝ってくれるかな。もちろん、お手当は弾むから」
お手当?
割り増しになるのね?
加奈江の中でちゃりんと小銭が鳴って落ちる。
政との恋の始まりを告げた鈴の音は、近頃では小銭の音に変わっていた。
「お引き受けします」
飛び上がらんばかりに喜ぶ担当者が持ち込んだ案件はわりと早めに終わったけれど、別の人、そのまた別の人と頼まれて持ち込まれてどんどん膨れあがって。
右手が文字を書きすぎてぱんぱんになった頃には、姉との約束の時間はとうに過ぎ、日がとっぷりと暮れていた。
「ありがとうー」と言う筆耕室の人たちに見送られ、空を眺めて加奈江はため息をつく。
真っ赤な夕日がまぶしい。
これでは帰宅が深夜になる。
このまままっすぐ自宅へ帰りたい。でも、姉や母を待たせているのだし。
どうしよう、と悩んだ加奈江はホテルのロビーから政へ電話をした。
「予定通り、お義姉さんたちに会ってきたほうがいい。そして夜道は危ないから、今日は帰ってくるな」
と政は言う。
「今晩は水流添の皆さんにお願いして泊めてもらうといい。俺からも連絡しておくよ」
「でも、お洗濯物が……干しっぱなしなのよ……」
今日は下着を洗った。
彼のを洗うのは抵抗ない。でも、自分のを見られるのは――
まだイヤ。すごくイヤ!
だって、普段着の下着は、同年代の女性なら絶対に嫌がる、おばさん下着と姉に笑われるぐらい大きいものなんだもの。見られたくない。
加奈江の思いにまったく絡まず、政は言った。
「もう取り込んであるから心配するな」
うそ!
取り込んじゃったの!!!
加奈江は口にしかけて思わず受話器を落としそうになった。
「それより、俺からもよろしくと伝えておいて」
呆然としながら、「ごめんなさい、朝一番で帰るわ」と言って公衆電話の受話器をがっちゃんと下ろした。
とぼとぼと、少ししおれた顔で自宅へ到着し、もてなされた夕食の席上で姉の道代は言う。
「新婚早々、両家へのあいさつ前に実家へ帰ってくるなんて。今から先が思いやられるわね」
少し前まで座っていた席に、いつも通りについた妹へ、
「そこは秋良の席なのよ。もうここにあなたの座る場所はないの」
と、来客用の茶碗を渡してねちねちと。
あなたはここと指示されたすぐ隣には、お子様用の椅子に座る姪である秋良がにこにこと笑顔を振りまいている。
「カナちゃん、おうちにいるの?」
幼女は悪気ない。
「ずーっといるの?」
「そんなことないない」
「あるわけないでしょ!」
叔母と母は同時に言う。
「なあーんだ。つまんない」
秋良はスプーンとフォークで、ちゃかぽこと食器を打ち鳴らし、道代に叱られていた。
ちょっと前まで、自分もこの中にいて、家族としての時間を共有していた。
たった1,2週間前のことなのに、ずいぶんと昔のように思える。
「まあまあ、道代さんもあまり言いすぎないで」
珍しく平日の夜に食卓を囲む義兄の悟は言う。
「お写真、出来てるんだよ、見るよね?」
「ええ、ぜひ」
写真が趣味の悟は加奈江と政の結婚式から両家の食事会までを自分の食事はそっちのけで山のようにファインダーに収めていた。
元々写真を見せてもらうために来たのだから、撮影してくれた義兄に直接礼が言えて良かった。
夕食後、片付けが終わってお茶とお菓子で談笑するいつもの団らんの場に、義兄は分厚いアルバムを何冊もかかえて持って来た。
「こ、こんなにあるんですか?」
加奈江は目を丸くした。
どうやって持って帰ろう。
今日は預かった筆耕のお仕事を持って来ている。風呂敷包みが2つ、いや3つになるかもしれない……。
けれど、義兄の気遣いが詰まっている。文句言ったらバチがあたる。
「そうかなあ」
悟は頭をかき、
「写ってるのはあなた方だけじゃないから」
道代はチャチャを入れた。
「あのねえ、秋良もね、写ってるの!」
ほら! とページをめくって加奈江に差し出すのは姪だ。
ハレの日はたった半日足らずだったのに、とても濃密な時だった。
加奈江の両親に、政の両親。
それぞれ新郎新婦の親として収まっている。
特に政の両親は、ふたりの不和を聞かされていなければごく普通の夫婦にしか見えない。
政には弟がいる。母親は義母ではない。
人は……見かけだけではわからない。彼らの内側にはどれ程の葛藤があるのだろう。
姉たちが写真一枚一枚を指さし、あれこれ言っているのを聞き流しながら、視線は義両親の姿を追っていた。
「政君、どの写真見ても、加奈江ちゃんのことばかり見てるんだよね」
悟に言われて我に返り、姉たちの談笑に戻った。
言われて指差された先に写っているのは、目を伏せて隣に立つ加奈江を見守る政の姿だった。
中座して背を向けた時、他の人と話している時。
彼の視線は確実に加奈江を追っていた。
いやだ、彼ったら。
知らず加奈江の頬は朱に染まる。
でも、幸せそう。
彼、嬉しそう。
ファインダーに収まったふたりは、確かに惹かれ合い、好きで好きでたまらない相手と結ばれた喜びに包まれていた。
加奈江は胸の前で手を合わせ、無意識のうちに真新しい左薬指の金の指輪を触っていた。