小説『ゆるやかに流れる水の流れに添い・2 カナとアズキとツカサとコムギ【続きます】』
作者:初姫華子(つぼはなのお知らせブログ)

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その3 政くんと太郎くん



【1】尾上家の現実

大学を卒業すると晴れて社会人――とならないのが、自由業を選んだ尾上家の現実だった。

政はほぼ毎日、お稽古の先生として、都心や地元の書道教室へ通い、教え、加奈江は自宅へ持ち帰った筆耕の仕事をしていた。

冬場に半纏を仕立てたり、自分が着る普段着ぐらいなら縫ってしまえる加奈江は内職系の仕事に事欠かなかった。

これには、子供の頃から女のたしなみとして仕込んでくれた母に大いに感謝した。見よう見まねで始めた洋裁や編み物は家族の衣服を作るのに充分な腕前だったし、和裁に至ってはまとまった額の収入になった。

そもそも新人サラリーマンの初任給は微々たるものだが、今の政の収入ではそこすらおぼつかない。

自由業ならではの気ままさは、不安定とも言い換えられる。

心許ない分を補ったのは加奈江の内職とやりくりだった。

政も、時々、自分の力で稼げる金額の少なさにこぼす日もあった。

けれど、彼に、書道家として生きる以外の道は考えられない。

政は子供の頃から立てた志を実現させる為に学生の頃から準備していたし、加奈江も彼が書道家として生きる姿以外は想像できない。

これでいいの。

爪に火を灯すような生活を、加奈江は笑って場を和ませ、手を、針を動かした。

若者故の気楽さだ。

「何とかなるわよ」と。

給料日前、お財布の中身が乏しい時は常備野菜や小さい畑から取ってきたもので天ぷらを作った。

野菜天ぷら = 家計の危機というやつだったが、からっと揚がった天ぷらに舌鼓を打ち、美味いという夫の言葉には嘘もみじめさも微塵も感じられなかった。

桜の季節から葉桜へ変わった頃のこと。

尾上家に一通の封書が届いた。

中に入っていたのは、線画が目にも鮮やかで、日本中でこれが何なのか知らない人はほとんどいないと思われるチケットが二枚。

万博の入場券だ。

一枚ぺらっと入っていた紙には「おめでとうございます」の文字が躍っていた。

今年は1970年。

大阪ではこの年の三月から日本万国博覧会が開かれていた。

開催に先立ち、日本中はこの話題で持ちきりとなり、方々で入場券が懸賞品としてもてはやされた。「○○を買って万博へ行こう」というやつだ。

「新婚旅行がわりに行ってくるといい」と義父は言い、チケットと旅費を手配しようとしてくれたが、ふたりは「とんでもない」と一度は断った。でも、実はふたりそろって少し後悔していた。

国内外を揺るがす一大イベントに興を惹かれない若者はいないからだ。

巷の空気も手伝って、政と加奈江は「行きたいね」「うん、そうだな」と言い合っていた。

近場であれば本当に日参したいくらいだったし、加奈江の同級生も卒業後の進路として何人かが場内のパビリオンへホステスと呼ばれる案内係として働きに行くことになっていて、華やかな会場が職場となる彼女たちが会期半年の不安定さがある職業なのにうらやましかった。

本当に。近所だったらよかったのに。

ただ、会場は大阪。東京からは遠い。

新幹線を使っても片道三時間以上はかかる。

一度、「東京で開かれるのだったら、職員に応募してたわ」と軽口を叩いてみたら。

「ええ?」と政は焦って問う。

彼の反応が面白くて、加奈江は続けた。

「そしたら、結婚は今年の秋までお預けだったわね」

「ええーっ?」

実現不可能なできごとだというのに、政は情けない声を上げた。

加奈江は「ウソよ」と言って、笑いながら首に抱き付き、しなだれかかる。

「遠くでよかった」

耳元でホッとしたように冗談にならないぼやきを言う彼に、加奈江はつい吹き出していた……。

犬も食わぬ夫婦のなんとやらだ。

その後も何度か「行きたいね」「そうだな」と繰り返し、なんべんもかかる費用を計算した。

行き先は大阪。泊まりがけで、ふたり分の運賃を賄って……。

いくらかかってしまうの?

ああ、ムリ。やっぱりムリ。

行けない日本人は自分たちだけではないからと、あちこちで出版される特集雑誌や新聞を見て気持ちをなぐさめていた頃に届いた招待券。

ダメもとで送りまくった懸賞が、当選の形で報われた。

「絶対行けない、ホントにダメ」と結論を出していたのに、それをすかっと忘れて、早く彼が帰ってこないかしら、とウキウキしていた加奈江は、あまり浮かれていたものだから、アズキの尻尾を踏み抜いて老猫をうんと怒らせた。

仕事が終わった政を駅まで迎えに行って、自宅まで車を走らせている間も、口元がほころんで困った。

「何か良いことでもあったのか?」

チラチラと見る夫に、

「お家に帰ったらね、言うわね」

と返した。

「そうか」

と短く言う彼の口調が、いつになく弾んでいるのに普段の彼女なら気づきそうなものだけれど、この時ばかりはすっかり聞き逃していた。

食卓に着き、ほかほかと湯気を立てる野菜天ぷらを前に、ふたりはほぼ同時に「実は」と切り出す。

「さっき車の中で言ってた、良いことか?」

「あなたの方こそ、何なの、改まって」

「うん、でも、カナの話を先に聞くよ」

「いえいえ、あなたの方から」

と、二度三度「君から」「あなたから」と押し問答をし、

「おかず、冷めちゃうわね」

と言った加奈江のひとことが契機となった。

「カナの方から先に話してくれ、早くごはんも食べたいし」

腹を鳴らしながら政は言い、加奈江はこくりと首を縦に振る。

「あのね、今日、これが届いたの」

封筒から出てきたのは二枚のチケット。

ひと目見て、政は「あー」と大声を出す。

「ね。すごいでしょ。懸賞が当たったの! たくさんハガキ書いた甲斐があったわね。会期中、いつ行ってもいいんですって」

「俺も……持ってるんだけど」

「えっ?」

二つ折り財布から、ごそごそと取り出されたのは、加奈江が持つものと全く同じデザインのチケットが二枚。

「何だ、驚かそうと思ってたのに」

政はくやしそうに言う。

「どうしたの、それ」

「師匠からもらってきた。何枚も腐るほどあるから好きなだけ持って行きなさい、だと。言われるままってワケにはいかないから、とりあえず二枚」

大人の入場券が都合四枚。これで二日間は見学して回れる。

月の石を見る、いや、パビリオンをたくさん回ろう、と行けるかどうかもわからないのにガイドブックやマップをチェックしていたふたりだ、心は一瞬大阪へ飛び、けれど瞬時に目の前の野菜天ぷらに戻った。

「……とにかく、食べようか」

「うん」

もくもくと箸をすすめるふたりは、行きたいと念じるだけではどうにもならない物理的な距離に思いを致す。

現実は『野菜天ぷら』だ。尾上家の国庫は空なのだ。

大阪は遠い。

せっかくのチケットだけれど……。

残念。

口には出さなくても、出た結論は同じだと、お互いに納得し、ため息をついてふたりは床についた。

あきらめましょう、となると、手元にある四枚のチケットの今後を考えないわけにはいかない。

「お義父様は……ダメよね、お誘いを一度お断りしてるもの」

「じゃ、カナの家に譲るか」

「そうね。姪もいるし、姉に家族旅行で使ってもらいましょう。今度、納品で都内へ行く時に実家へ寄るわ。いい?」

「うん」

答えて、政は小さく笑う。

「何?」

「いや、実家って言うんだなと思ってさ」

「え?」

「お前の家は、お前が暮らしてきたところじゃなくなってるんだな」

当たり前じゃありませんか、と言いかけて加奈江もはたと思いつく。

「本当ね……。何も考えないで自然に出てくるようになってる」

「些細なことなんだけどな、カナとふたりで何かを作り上げているんだな、って気がするな」

うん、と首を縦に振る。暗がりだからきっと相手には見えない。けれど、伝える意志は肯定だ。

一瞬の沈黙の後、「いい?」と声を掛けるのはいつも政の役所。

けれど、今日は、彼からの誘いを聞く前に、加奈江の方から彼の布団へ潜り込んだ。

春先の夜は生暖かく、そしてなまめかしく薫る。

忍び笑いは、すぐに熱い吐息へと変わっていった。

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