小説『ゆるやかに流れる水の流れに添い・2 カナとアズキとツカサとコムギ【続きます】』
作者:初姫華子(つぼはなのお知らせブログ)

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【2】水屋からチケット


筆耕の作品と、縫い上がった着物が包まれた風呂敷包みを抱えて加奈江が都内へ向かったのは、懸賞品が届いた翌々日のこと。

行く先々で次のお仕事の品と交換した。

持っていた荷物とほぼ同数の依頼品を抱える。途切れることなく依頼される仕事は正直とてもありがたい。しかし、重い荷物だ。よっこいしょと抱え、どんどん力持ちになっていくわと思いながら向かった『実家』で、少し早めの昼食をご馳走になった。

いつもならばたばたと走り回り、まとわりつく姪の姿がない。

「今年から幼稚園よ、言ってなかったかしら」

ポットから急須にお湯を注ぎながら姉の道代は言う。

「そうだったわ、お祝いの品を贈ってて、私ったらピンと来なくて」

「ま、そういうものかもね」

緑茶の香気が鼻腔をくすぐる。

「親の私が一番馴染まないんだもの。あの子がいなくなって、これで家事が片付くわ、と思ったのに、いざ幼稚園へ送り出すとね、ぽっかり心に穴が開くというか、落ち着かないのよ」

「そうなの?」

「そうなの! 今頃何してるかしら、とか、はしゃぎ回って皆さんに迷惑かけてないかしら、とか、泣いてないかしら、とか……。もう、気になって気になって仕方ないのが親心なのよ」

ほう、と道代はため息をつく。

「ま、あなたも子供ができたらわかるわよ」

「そういうものかしら……」

「そうなの!」

姉と妹はずずっと茶を啜った。

姪が誕生した日、政は水流添家で加奈江と初めて食卓を囲んだ。

あの時、政とふたりで交わした約束通り、今、ふたりは家庭を持った。

「あの子がもう幼稚園。早いわね」

と妹が言い、

「そうねえ、月日が過ぎるのはあっという間」

と姉も言う。そして、壁の時計に目を走らせた。

「もうすぐ帰って来る頃ね」

「誰が?」

「秋良がよ」

「まだお昼過ぎて少しでしょ。こんなに早く幼稚園は終わってしまうの?」

「そう。入園して日が浅いからね、今は慣らし保育期間中なの」

ちょっと待ってね、と言って姉が席を立つのと、玄関先にエンジン音が響くのはほぼ同時だった。

つたない声であいさつをする姪の声と、先生とおぼしき先生の声が聞こえてきて、すぐにばたばたと玄関を上がってくる足音がした。

「ああー。カナちゃんだあ!」

ぱあっと花が開いたように、姪の顔は笑顔で満開になる。

真新しい制服にバッグ、帽子に着られているような彼女は、場を和ませ、他人に笑みを誘わせる名人だ。

「秋良。カナちゃんじゃないでしょ。ほら、ごあいさつは」

母に促され、首をすくめて笑って。姪はぺこりと頭を下げる。

「こんにちは」

頭を上げてにぱっと笑う。

「はい、こんにちは」

加奈江も少しオーバーに、メリハリをつけて礼をし、言葉を返した。

「大きくなったわねえ!」

混じりけなし、本心からの言葉だったのだけれど、みるみる秋良の顔色は曇り、母の後ろに隠れてしまった。

え?

姪の行動がわからず、妹は姉に救いを求めるように目を向けた。

道代は苦笑しながら、娘の髪を梳いていった。

「お並びすると、一番前になっちゃうのよね、それがね、イヤなんですって」

「え、そうなの!」

つい加奈江は声を大きく上げる。

「前会った時より、ホントに大きくなっているわよ?」

子供の成長は早いし、加奈江の言葉に嘘はない。

確かに秋良は一回りは身長が伸びていた。

けれど、本人の成長の度合いと周りの比較は別問題。

「大丈夫、ちゃーんと大きくなれるから。だから心配しないで。お洋服、着替えてらっしゃい」

こくりと秋良はうなずき、ちょっとうなだれながら奥へとぼとぼ下がっていく。

「制服はちゃんとハンガーにかけるのよ」

はあーい、と気乗りしない返事が小さく返ってきた。

「そんなわけでね」

姉は言う。

「あの子、身長が低いのをとても気にしてるから、あまり刺激しないでやってちょうだいな。今だけでいいんだけどね」

「ええ、わかったわ。でも、女の子はおチビさんの方がいいんだけど」

自分の経験からつい口から出た言葉だった。

加奈江は女性の平均身長より背がかなり高く、中学時代は男子学生と肩を並べていたくらいだった。男の目から見ても高かったのだろう。彼女の身長を抜くか抜かないかで男子学生と背比べを何度もさせられてげんなりしていた。中学生男子なんて、ただのガキだ。デリカシーのかけらもない。私、物差しじゃないんだけど、と何度思ったことか。

「そんなの、幼稚園児にわかるわけないわ」

「それもそうね」

「よければ、あなたの旦那にも言っておいて。身長の話はタブーよ」

「もちろん」

政は、時々、思ったままを思った通りに口にする。悪気がないから対処のしようがない。政の一言で秋良がベソをかいたことも何度かあったくらいで、泣かせてしまったと政は焦り、「おじちゃん、きらい」と宣言されて落ち込み、困ることになる。

姪を可愛がってくれるけれど、女の子の微妙な心の動きは、その都度教えないと理解できないだろう。

「ところで。秋良の身長談義で来たんじゃないでしょ。どうしたの」

そうだった。

加奈江はバッグから封筒を出した。四枚のチケットが卓上に並ぶ。

「彼が頂いたものと懸賞で当選したものなの。よかったら姉さんと義兄さんに。父さんと母さんにあげてもいいわ」

しばらく無表情で黙っていた道代はすっくと立ち上がり、水屋から一冊の紙の束を出した。

一目見て、加奈江はぎょっとする。

十枚以上はあるだろうか、端をホッチキスで留められた、もちろん未使用、ピン札のように切れそうな、万博のチケットの束だった。

「あなたが来たら分けましょう、と思って」

「どうしたの、これ!」

「悟さんがね、お仕事の兼ね合いで前売り販売中に安く買っておいたんですって。ほら、あの人、数の概念が少しばかり人とずれているでしょ」

「ああ……」

道代の夫は、シンクタンク勤めのとても賢い人であるにもかかわらず、ワケのわからないところが抜けている。

そうめんと冷や麦の束の太さを念頭に置かないで、そうめんと同じ束数で湯がいてとんでもない量の麺をこしらえて、居合わせた政に山ほど食べさせた過去もあったくらいだから。

「もう、何回出入りするの、ってくらい買ってくれちゃって。私たちは秋良が夏休みに入らないとお出かけできないし、会期は九月までだし。あなた、新婚旅行へ行ってないでしょ、なら、と思ってあなたたちの分を横へ置いておいたの。だからね、せっかくだけど、そのチケットはいらないわ」

「いや、せっかく、って……。横へ置いておいて、って……」

一体、何回入退場できるというのか。

「私たちだって、ほら、彼もずっとお稽古が入ってるし、猫もいるし」

「半分ノラだったんでしょ。ちょっとくらいなら大丈夫よ」

「ダメよ。生き物なんだから。エサあげないと」

「一日二日ぐらいなら都合つくでしょ」

「だって、大阪だもの。遠いし!」

旅費もホテル代もふたり分いるし! と口にしかけて止めた。

「ふーん」

道代は目をすがめて妹を見た。

「ネックは旅費ね?」

「いえ、その」

「ま、収入が安定しない若夫婦なら仕方ないか」

妹の後ろに積まれた風呂敷包みを見やって言う。

「……そう」

わかってるなら言わないでよ、と少しばかり非難めいた視線を送って、自らを恥じる。

若者の新婚家庭が貧乏なのはいずこも同じだ。

あまり「お金がない」と言うのはみじめだし、政の甲斐性をほのめかすようでもっと悪い。

生活力ゼロなのに家庭を持ちたいと言ったのは私たちふたりなのだから。

「じゃ、私の方はこちらで何とか配り先を探して置くわ。だから、その四枚は自分たちで何とかして」

「ええーっ」

妹は不平を鳴らした。

「あと四枚ぐらい増えてもいいじゃない」

「あなたが行けないのと同じ理由でお断りする人も多いことぐらい、想像できるでしょ。ホント、大阪は遠いわね、残念だこと」

姉はそう言い、奥に引っ込んだまま出て来ない娘を呼びに席を立った。

「まあまあ、秋良ったら、おもちゃ出して遊んでないで! 早くお着替えなさい! もう、カゼひいちゃうでしょう!」

時折、クスクス笑う姪の声がする。

天真爛漫で明るい姉の娘らしく、人好きのする姪は身内の欲目を抜きにしても愛らしい。

叱りつけているはずの姉の声も、さほど厳しくなく、親子そろって笑う始末だ。

私たちに子供ができたら、私も姉みたいに接するのかしら。

彼は……どんな父親になるだろう。

そんなことより、目下の心配事は目の前のチケットだ。

どうしよう。

「いってらっしゃーい」

と姪に見送られながら、帰路につく加奈江は無意味に考えすぎて、もう少しで降りる駅を間違い、乗り過ごすところだった。


◇ ◇ ◇


その日の晩の食卓で。

「実はね」とご飯を盛った茶碗を渡しながら切り出す彼女に、生返事の政は「うん」と答える。

「姉に渡すつもりだったチケット……姉さんのところもたくさんあって、断られたの」

「そうか、それはよかった」

え?

加奈江はコツコツとちゃぶ台を二度、指先で叩いた。

はっとして政は我に返る。

「人の話、聞いてた?」

「うん……ごめん、よく聞いてなかった」

「もう」

ことりと、茶碗をちゃぶ台に置いて、政は頭をぺこりと下げる。

「ほんと、ごめん。で、何だって?」

「だからね、姉さんのところではチケットはいりません、って」

「そうか……」

「そうか、って。どうしたの、何か変よ」

「変。……うん、そうかもしれない」

はあ、とため息をついた政は尻のポケットから二つ折りになった封筒を出す。

まさか。

加奈江は顔を上げ、封筒と夫の顔を見比べた。

「うん」

眉間に皺を作って政は言った。

「若者なら行きたいだろう、ってもらってしまった」

「どなたから?」

「稽古先の、年上の生徒さんから。今までも声をかけられてて、何度も断ってたんだけど、今日はどうしても断り切れなかった……。世話になってる人だから、がっかりする顔見たくなくて……」

都合六枚のチケット。

「どうしましょう……」

「もらっておいて行きませんでした、ってわけにはいかないしなあ。だからって何日も家は空けられないし、アズキもいるし」

政はほぼ毎日稽古だ何だと予定が入っていた。何日も続けて休みを取るのは難しい。特に駆け出しのひよっこなのだからなおさらだ。

ふたりは未練たらたらで買ったガイドブックを開き、今更ながら旅費の計算をした。

東京から大阪までの電車賃に宿泊費。

現地で使う雑費に、お礼のお土産。もちろん身内へ配るお土産代も。

もろもろの費用を出して、計算して……。

「今日明日はムリだけど、節約して、お金貯めたら夏前には何とかなりそう?」

口にする加奈江の声は心なしか弾んでいた。

「そうだな、足りなければ質屋へ行くか」

言う政も楽しそうである。

「そうとなったら、行きたいところをピックアップしておかないとな」

目を輝かせてガイドブックをめくる彼に、加奈江は声をかける。

「最初の頃は、岡本太郎がキライだから行かない、って言ってたのに」

「今もキライだっ!」

政は顔をしかめる。

「キライだけど、それとこれとは話が別!」

「初めての旅行ね」

何の気なしに言った彼女のひとことに、政は表情を緩める。

「そうだ、ふたりで行く、一年遅れの新婚旅行だ」

「うん」

うなずく加奈江は、思った。

またひとつ、初めてが増える。

思い出が積み上がっていく。

けど、悪くないものね、あなたとふたりで頭をひねりながらお出かけの算段をするのも。

誰かを当てにしないで、ふたりで解決しようとするあなたの考え方、とても好き。

ガイドブックを覗き込む振りをして、加奈江は彼の腕にもたれる。

当然というように、肩を、腕を抱き、あぐらをかいた自分のもとへ座らせる彼の体温を身に受けて。ひとしきり語り合い、本が閉じられた頃に来る、彼のキスを心待ちにしながら。


◇ ◇ ◇


言ってくれれば旅費ぐらい、と加奈江の両親は言い、政の母も同じことを言った。用立てぐらいしてあげるから、と。

加奈江も政も、今回ばかりは固辞し続けた。

「たかが旅行、それぐらい自分たちで賄いなさいな」と姉は言い、政の父も同じことを言った聞かされた政は、「だから義姉さんが苦手なのかな、俺」とぽつりとこぼした。

彼が道代についてどう思っているかについて吐露したのは初めてのことで、言った後に、彼はしまったと言うように嫁の方を横目で見た。

こんな時は聞かないフリ。聞き逃したフリ。

加奈江はラジオを聴いている素振りで和裁の手を忙しく動かす。

まあね。

出会い頭がよくなかったから、彼が姉へ及び腰になるのも無理はないわ。

今となっては笑い話だけれど、若いふたりの甘酸っぱい思い出と対になっている姉と彼との『対決』だったから。

ちゃりんちゃりんと小銭を貯め、お給金から少しだけ万博旅行分をとりわけて使わないように銀行へ預けて。みじめにならない範囲で切り詰め、節約して、どうにかこうにか目標額まで貯めたふたりは、予定通り、夏前の、言い換えれば梅雨時、好天は期待できない頃が旅行日と決まった。

政の仕事の都合上、二日と空けることができなかったので、一泊のみのささやかな旅行。

チケットは二枚余ることになるけれど、現地で欲しい人にあげれば良い。

アズキ用にエサと水をたくさん用意してふたりは奥多摩の家を後にし、一路、大阪は千里丘陵、万博会場を目指した。

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