◇ ◇ ◇
暗い室内で、加奈江は目を覚ました。
暗がりに慣れた目は、床に投げ捨てられたふたりの服を捉える。
あんなにくしゃくしゃになって、うっちゃっておいて。
明日、着て帰るのに。早くハンガーにかけておかなくちゃ。
そう思って。的外れな考えに、我ながらおかしくなる。
気怠くて身を起こすのも億劫で、ベッドの上に身を横たえたままでいた。
いいわ、朝、何とかするから。
身体は、節々が痛むように圧された指の跡があちこちについていて、しくしくと痛んだ。
身じろぎをしたら、ベッドのスプリングが一度、ぎしりと大きく鳴った。
その音に、身を震わせたのは、隣の政だ。
身を起こし、ベッドの背板に背中をもたれさせて、膝を立て、頭を抱えている。
「……起こしたか?」
問う声はかすれている。
「ううん、大丈夫」
加奈江は彼の方に身体の向きを変える。政は彼女の肩まで毛布を引き上げ、整えてやった。
「今、何時?」
「夜半を過ぎた頃だ」
政に激しく抱かれてから、まださほど時間がたっていないのか。
もう、夜明け近いかと思ったのに。
加奈江は彼の指を求めて手を伸ばした。
ぴくりとも動かない彼の手を、指を、何度も撫でた。
強張ったままの彼の手は、彼の心をそのまま現している。
身を固くして、緊張して。
こわがっている、どうしたら良いのかわからなくて身動きが取れない――。
彼の手をさすりながら、加奈江は自分の身体がきれいに拭き清められているのに気づいていた。
途中で気を失って意識が無くなった私を、彼はどんな思いで寝台に横たえたのだろう。
火のような激しさと、水のような理知を持つ彼のことだ。
今は理性が自分を責めさいなんでいる。何てことをしたのだろう、と心の底から悔やんでいる――
自分の身に加えられたことは横へ置いておいて。
加奈江も身を起こして彼の隣に座り、肩に頬を寄せた。
冷え切った肩が、彼の心の高ぶりが冷めたことを伝えている。
寒かったでしょうに。
腕を回して、彼の肩を抱いた。温めてあげたくて。
されるがままになる政は、小さく、「カナ」とつぶやいた。
「うん」
政がいつも言うように、加奈江は応える。
「俺は……お前に何てことを……」
「言わないで」
でも、と言葉を繋ぐ彼を遮って、加奈江はその口に触れるだけのキスをした。
軽く、戯れるように一度。
音を立てて離れた唇は、なおも言い募ろうとする彼の言葉を封じるように再び重なる。
「何も言わないでいいの」
鼻を頬に何度もこすりつけ、鼻の頭を一度、ぺろりと舐めて、加奈江は言葉を繋ぐ。
政は小さく笑った。
「お前、鼻を舐めるの、好きだよな」
クスリと笑って加奈江も言う。
「気づいてた?」
「うん。一発で目を覚ますくらいに」
「イヤな人」
忍び笑いが彼女の口から漏れ、つられるように政も笑う。
頬を寄せ合ったまま、彼は彼女の背に手を回した。
さも当然というように彼女はぴたりと彼の腕の中で息を吐いた。
腕にこもる力の強さは、さっきの暴力的な腕力とはまるで違う。
包み込まれる時のあたたかさを乗せる。彼女が愛して止まない、政の温もりだ。
彼に包まれる時、目尻には自然に涙が浮いてくる。
温かくて、頬を滑るひとしずくの涙。
今も流れる、悲しくなくても出る涙を、政の指がぬぐう。いつも受け止めてくれる彼が、愛しくて愛しくてならなくて。
幸せで。
この時と引き替えに何をされてもいいと思えるくらいにうれしくて。
だから――
私は彼がすることは結局、受け入れてしまえるのだ、と加奈江は思った。
今この時も……。
手荒く抱かれても快感を得てしまうくらいに彼を求めてしまう。求められてうれしくてたまらないから。
「カナ」
政は名を呼ぶ。
「政……」
加奈江は応える。
「俺――時々、おかしくなるんだ」
ぽつりと彼は言う。
「女の子は清くなければならないなんて口で言っておいて、その実、欲しくて欲しくて堪らなかった。お前に出会った時からずっと」
彼女は首を傾げて彼を見上げる。
「カナを押し倒して、犯す夢を何度も見た。きっと嫌がって泣くだろうと思っても――興奮した。どんな声で泣くんだろうと思うだけで、俺……。がまんできなかった」
大きく息を継いで彼は言った。
「最低だ」
彼女の髪に顔を埋めて続ける。
「誰よりも好きで、誰にも渡したくないぐらい大切なのに、何で傷つけるようなことをしたくなるんだろう。俺がお前にしたことは」
「政」
「強姦だ」
彼は彼女の乳房に指を這わせた。
エロスを引き出す意図を持たず触れた指の先は、圧された痛みを訴えている。
「痣になってる。ここと」
と言って、指先は彼女の身体を辿った。
「ここも……ここも……。たくさんの痣を作った。痛かっただろう?」
彼女は首を横に振った。そんなはずない、と政はさらに彼女の髪に手をくぐらせる。
「俺、またカナに、痛い、恐い思いをさせるかもしれない、カナの泣き声が耳から離れないのに――だけど」
政は彼女を強く抱きしめた。
「俺、お前から離れたくない、軽蔑されても嫌われても憎まれてもいいから、側にいて欲しい」
「いるわ」
彼女は即答する。
何も考えず、思いもせず。
口から出た言葉は続く。
「私たち、本当に赦し合ったことがないの。だってお互いを傷つけてないから。いつも受け入れて認め合って、側にいて……。でもそれだけでいいの、って思っていたの」
「カナ」
「愛してる」
彼の耳元でささやく。
「本当に愛し合うってどういうことなのか、私にはわからない。これからもわからないかもしれない……。でもね、政。私もあなたから離れたくない。もういらないと言われても絶対にあなたの側から離れない。だから、私を信じて。自分を責めないで。たくさん傷付けてもその分たくさん愛し合いたい」
「お前――」
「愛してるの。あなただけなの。私が愛してるあなたを信じて」
「加奈江」
夫の抱擁はいつ受けても面映ゆくてうれしくて切ない気持ちになる。
言葉では伝えきれない思いを、そのまま受け止めて私が感じているように彼にも伝えたいのに伝えきれない。
だから、何度も求めてしまうのだ、あなたを。
一度、お互いの肌の温もりを、触れ合う指を、唇を知ってしまったら、知らない過去には戻れない。
夜泣きをするように、お互いを求めて泣く。身体も心も。
「ありがとう」
「何が……?」
「私の身体、拭いてくれたでしょう? きれいにしてくれたでしょ?」
「そんなこと……俺が……」
「あなたは?」
「え?」
「シャワー、浴びた? きれいにした? 気持ち悪いところはない?」
「俺のことならいい」
「よくない。私がしてあげる」
「何を……」
「きれいにしてあげるから」